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北海道開拓の先覚者達(8)~高田屋嘉兵衛~更新日:2013年09月15日

    

 1966年、大学を卒業し、今でいう外資系IT企業に入社した。約半年間の研修を終え勤務地が発表されると、50名ほどの同期の仲間は、多くが東京など大都市の支社や営業所勤務を命じられたのに対し、私の初任地は函館営業所だった。
研修が終わった翌日、上野駅発の夜行列車に乗り、国鉄東北本線・青函連絡船を乗り継ぎ函館に降り立った。営業所は函館駅の近くで、事務責任者、技術担当5名、シニアの営業担当の小規模所帯。その中で新入りの営業部員として私が加わったわけである。上司は札幌にいたので日々の指導は受けられず、一方数値目標だけは他の同期生と同じである。
 割合と自由度が高かったので、函館市内を散策することもあった。函館山の麓、宝来町グリーンベルトに立派な銅像が高い台座の上で海を見つめている。函館を拠点に国後・択捉まで全道に漁場を開拓し、北前船で北海道と関西の間を雄飛した豪商・高田屋嘉兵衛の銅像である。この銅像は高田屋の功績を称えるとともに、箱舘開港100年を記念して1958年(昭和33年)に建てられたもの。その台座の裏には以下の碑文がしたためられている。
「高田屋嘉兵衛(1769~1827)は淡路の人、28歳の時(函館に)渡来し50歳の時帰国するまで箱舘を基地とし、エトロフ島を開発経営して北洋漁業を営み奉行所松前移転後も本店を本町に、屋敷を蓬莱町に構えて大船10余・蔵40余を持ち大いに箱舘の繁栄を築いた。またゴローニン抱因のとき沈着剛胆よく日露の間を奔走してその釈放につとめ、長く露国に感謝された。」
 営業成績が落ち込むと、私はよく高田屋の銅像前に行き、函館市とその先の海を眺め、心を落ち着かせたものである。
 前回最上徳内編で、司馬遼太郎の大作「菜の花の沖」に触れた。今回は本書の主人公で、私の敬愛する“快男児”高田屋嘉兵衛を取り上げる。司馬遼太郎もこよなく愛した人物で「今も世界のどんな舞台においても通用できる人」と称えている。
 北海道開拓の先覚者たちを調べていくと、当時の身分制度で低層に位置していた人達がそれぞれの才覚や努力で北海道開拓に多大な貢献をしているのに気づく。最上徳内もそうであったが、高田屋嘉兵衛もまさに貧しい漁師の6人兄弟の長男として1769年に生まれた。明治政府が誕生する100年前である。小さいときから海に親しみ、海に玩具の船を浮かべて潮の満ち引きを調べて大人を驚かせることもあったそうだ。
 24歳で兄弟そろって兵庫(神戸市)に出て、水主(かこ)で船稼ぎをするようになった。才能と勇気に溢れ、優秀な船乗りとして認められた高田屋は船頭から28歳で船主になり、松前・函館へも足を延ばすまでになった。
 前号で紹介したが、この時期幕府は千島列島を南下してくるロシアに対応する国防対策を急ぐ必要を感じており、これに何の手だても労しない松前藩に不信感を募らせ、ひそかに蝦夷地直轄の準備をしていた。
 蝦夷地直轄に欠くことのできないのは船舶輸送で、幕府から準備を命じられた三橋籐右エ門は高田屋に意見具申させた。その時の高田屋の回答がすこぶる明快で三橋を痛く感嘆させ重用されることになった。
時、寛政10年であり、「菜の花の沖」で高田屋が三橋籐右エ門の配下最上徳内と遭遇したのがこの年である。
 高田屋が厚岸に滞在中、択捉島開拓の任を受けた近藤重蔵に呼ばれた。近藤は三橋から高田屋の船乗りとしての類なき才能を知らされていたので、択捉島への海路開発を高田屋に委ねたのである。国後・択捉間の潮流はすこぶる速く、当時は命懸けの航海であった。高田屋は毎日山に登り潮の方向を定め、蝦夷船を流すなど様々な試行錯誤の上ついに航路を発見。高田屋は造船の技術にも長けていたので、七十五石積の持ち船に堅牢な波よけをつけ、十分な用意を整えた上で無事、択捉島に渡った。2年後には近藤を乗せて択捉に向かい、この地の開発に成功した。これも一重に高田屋の努力の賜物である。

 高田屋嘉兵衛に関してはゴローニン事件を抜きにするわけにはいかない。1804年、レザノフを代表とするロシア遣日使節が長崎を訪れ通商条約の締結を求めるが、幕府は鎖国を理由にそれを断る。レザノフは憤慨し彼の部下が樺太の日本人居住地を襲い、翌年には日本人5名を捉えるという行動に出た。この事件で幕府は北方警備のため東北諸藩に出兵を命じ守備を固めることとした。このような時期、ロシア戦艦艦長ゴローニン中佐以下が食糧・水・薪の補給のため国後に上陸、配置されていた幕府守備隊に襲われ捕虜の身になった。
 副艦長のリコルドはゴローニンの安否を何とかして確認したいとの思いで翌年、再度国後を訪れ付近を航海していたが、ちょうどこの時、山高印の高田屋の船に遭遇し、これを威嚇射撃し高田屋以下を襲ったのである。この時、高田屋は少しも動じることなく、事のいきさつをリコルドの持つ手紙で知り、彼らがゴローニンの安否を深く心配していることを理解した。高田屋は自分の手に日露の平和のカギが握られていると判断、リコルドに従い捕虜の身でロシアに連れて行かれることを受け入れたのである。
 身支度を整えた後、高田屋は弟に次のような手紙を出している。その要点だけ抜き書きすると、「このたび天運つき候ことかオロシャへ参ることに相成り候。囚われと相成り候以上、大丈夫にて(堂々と)掛け合いいたす(交渉する)つもり候。何ほどつらき目にあい候とも、命さえ捨てる覚悟に候。ただ天下の為とのみ思いおり候。」高田屋の決意と侠気が浮かび上がる。
 リコルドは高田屋の堂々とした態度からその器量の大きさを感じ、丁重に接し、船中はもちろんカムチャッカに行っても居食を共にするようになっていった。この間、高田屋もロシア語を理解できるようになり、リコルドとの間で意思を通じあうことができるほどになった。
 リコルドは一時ゴローニン釈放のためには幕府と一戦交えねばならないとの思いにかられたが、高田屋にすべてをまかせることとし箱舘に上陸せしめた。幕府との交渉は高田屋の考えた通りに進み、ゴローニンは2年2カ月にわたる幽閉の後、釈放されることになった。敵対感情さえ持っていた両国の交渉を平和裡に解決まで導いたのは、ひとえに高田屋の献身的な努力の賜物である。十数年にわたり日露の関係はもつれていたが、ゴローニン釈放後30年間にわたり日露間に何の紛争も生じることはなかった。
 今高田屋が生存していたならば、日露間の領土交渉もうまく進んでいたことあろう。無いものねだりだが、第二の高田屋が出現することを期待したい。

 それまで福山(松前)の副港だった箱舘がやがてそれを凌駕するようになったのは高田屋の努力によるもので、特に本店があった本町や園地があった蓬莱町は今も往時の隆盛をしのばせている。
 数十の持ち船で大阪と兵庫に支店を持ち、山高印の船はいたるところでその姿を見せていた。引退して郷里に戻っても、河川の築造、橋梁や波止場の修繕、若者の育成など地方の為に尽力し、1827年59歳にて他界した。明治政府が始まる40年前である。「実に、高田屋嘉兵衛こそ北海を舞台に存分に活躍した快男児である」と、「北の先覚」の著者高倉新一郎は高田屋を評している。

 高田屋家は嘉兵衛没後も隆盛を誇るが、1833年に嘉兵衛の弟・金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ全財産を没収されて没落した。嘉兵衛が日露の友好に尽くした功績を大とし、ロシアは高田屋の船と遭遇してもこれを妨げないとの約束を交わし、その印として手旗で合図するとの約束を交わしていた。この合図を幕府は密貿易と誤解したのである。誤解は解けたものの、幕府に届けることなくこのような約束を交わしていたことで処罰されたのである。
 高田屋家の没落後、箱舘は火が消えたようになり、1868年(明治元年)函館府ができるまでの35年にわたり低迷の時期を迎えることになる。 次回は、北海道の先住民族アイヌについて調べてみたい。