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北海道開拓の先覚者達(79)~アイヌ民族―4更新日:2016年10月01日

    

 1286年、1000艘の軍艦に乗った、1万を超える軍勢がアムール川河口を出港した。向かったのは樺太。モンゴル帝国に服従していたギリヤーク人(ニヴフ)を侵犯していた、樺太アイヌを排除するのがその目的だった。アジア・ヨーロッパのほぼ全域を支配していた世界最強の軍団が、威信をかけて成敗しようとしたのだ。

 日本に元寇(蒙古襲来)があったのは鎌倉時代。1274年の文久の役と1281年の弘安の役と小中学校の歴史の時間に学んだ。だが元(蒙古)が樺太のアイヌを最初に攻撃したのは、元寇に先駆けた1264年のこと。元はそれから40年ほどの間に数度、樺太の出兵を繰り返していた。やがてアイヌは毛皮などを納めることを条件に元に降伏。戦いは収束したとされる。

 世界最強の軍団に抵抗を続けた、当時のアイヌの勢力や気力はいかほどであっただろうか。想像するに、数万を超えるアイヌが樺太に居住し、大陸との交易(ワシの尾羽や陸獣や海獣の毛皮)をしていたのだろう。当然、組織化された戦力も持っていたと思われる。

 アイヌは交易民族として、蝦夷地からチシマ・カラフトに強固な勢力を維持していた。それがなぜ勢いを失い、人口も減少していったのか。前回その疑問を呈したが、今回はささやかな知識の中から、私なりの想像をめぐらしてみたいと思う。

 まず考えられるのが、冒頭で記載した元による樺太アイヌ掃討の影響。交易民族としてアイヌは大陸から樺太、日本海沿岸(今の稚内、留萌、余市、松前)を通じ、本州との一大交易ルートを確立していた。

 しかし、1285年から1308年にかけての元との戦いで、多くの樺太アイヌが殺害された。恐らくは捕虜・奴隷となり大陸に連れていかれた者もいただろう。このことで樺太アイヌの勢いが衰えたというのは容易に想像できる。

 さらに、従来の対等な交易から、元王朝に対する一方的な朝貢(貢物を献上する)に変えられたため、樺太アイヌが貢ぐワシの羽や毛皮などの高価な品に対し、元からはささやかな品が下賜(かし:身分の低い者に与える)されるのみとなる。すなわち、交易の条件が大幅に悪化したわけだ。

 もともと樺太アイヌは弱かったのかといえばそうではないだろう。相手がいかにも強大過ぎた(世界最強)のだ。樺太アイヌはよく戦ったと賞賛すべきだとも思う。

 一方、蝦夷アイヌはどうか。こちらの衰退は「コシャマインの戦い」「シャクシャインの戦い」「クナシリ・メナシの戦い」というアイヌ三大蜂起が原因と考えられる。蜂起はしたものの松前藩や東北各藩の鎮圧によって、勢いは大きく削がれたはずだ。

 15世紀半ばに蝦夷地の南部・渡島半島を統治していたのは安東氏だ。彼らは「下ノ国」「松前」「上ノ国」を治めていた。それらの地域には12の館が構築され、数百人の和人が住んでアイヌ民族との交易を主業としていた。

 1456年、アイヌの少年(青年との説もある)が小刀を和人の刀鍛冶に注文したところ、その出来上がりや値段で口論となり、少年はその小刀で斬り殺される事件があった。自分たちが住んでいる土地に入り込み、横柄な態度を示す和人に憤懣やるかたない感情を抑えていたアイヌの人々は、これきっかけに和人を襲撃すべく蜂起した。

 蜂起はすぐに沈静化したが、翌1457年には、コシャマインとその息子が率いる1万人近いアイヌが安東氏の館を次々に襲った。これが「コシャマインの戦い」だ。12の館の内、函館や松前の大館を含む10館までが陥落。アイヌの軍勢は上ノ国の大館花沢館を包囲した。

 ちょうどその時、大館花沢館には越前(福井県)の武人・武田信廣が客将として寄宿していた。敗戦が続く安東氏を中心とした和人の懇請を受け入れ、武田はアイヌを迎え撃つため、和人軍の先頭に立つことになった。激戦の末、武田はコシャマイン親子をおびき出して七重浜でこれを射殺。その後ほどなくして蜂起は鎮圧された。一般には武田の戦略が優れていたという評価だが、だまし討ちではないかとの見方もあるという。

 当時、上ノ国を支配していたのは蠣崎氏という安藤氏配下の豪族だった。蠣崎氏はアイヌを鎮圧した武田の武勲を絶賛。武田を養子に迎え、蠣崎を名乗らせて自分の娘を嫁がせた。信廣の4代後、慶廣(やすひろ)の時に松前家を名乗ることになる。よって信廣は松前藩、松前家の始祖と称されている。

 コシャマインの戦いの55年後、1512年には志濃里館など道南の3館がアイヌによって陥落。翌年には松前家が治める大舘も攻め落とされたという記録が残っている。コシャマインの戦いで甚大な被害を被った後も、アイヌは引き続き一定の勢力を維持し、蝦夷地を実質支配していたと言える。

 こうした構図が大きく転換することになるのが「シャクシャインの戦い」だ。本ブログでもこれまでに何度か取り上げたので、ここではその概略のみ記す。

 まず戦いの背景について年代別に見ていきたい。武田(蠣崎)信廣の4代後、名を蠣崎から松前へ改めたのが慶廣である。慶廣については次回に詳しく述べるが、結果としてアイヌを悲惨な生活に追いやった当事者といえるだろう。

 1604(慶長4)年、松前藩は徳川家康からアイヌ交易の独占権を与える黒印状を得て、商場地行制(あきないば・ちぎょうせい)および場所請負制によってアイヌを支配収奪した。

 アイヌにとってさらに不幸だったのが、1640年の駒ケ岳の噴火と太平洋岸の大津波、さらに1663年の有珠山噴火だ。この時は多くのアイヌが災害によって亡くなったが、松前藩も災害による財政難から、アイヌへ売っていた内地の商品を3倍にまで値上げしたのだ。たとえば従来、米2斗に対して鮭100本であったのが米7升に減らされたという。

 1669(寛文9)年6月21日、アイヌの頭領シャクシャインらの呼びかけで、東はシラヌカから西はイシカリを除くマシケ周辺までのアイヌが一斉蜂起した。約2000人の軍勢は交易商船などを襲撃。突然のことに和人は対応できず、東蝦夷地で213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。

 その後シャクシャインの軍勢はクンヌイ(国縫)まで攻め寄せるが、そこで幕府の支援を受けた松前軍の鉄砲隊に敗れ撤退。

 松前藩は偽りの和睦を申し入れると、シャクシャインはそれを一旦拒否。だが劣勢ということもあり、最終的にはこれを受け入れる。その和睦の宴でシャクシャインは毒を盛られ「よくも私をだましたな、汚い仕業だ」と大声を上げたが、そのまま絶命。後の祭りだった。それが1669年10月23日のことだった。指導者を失ったアイヌ軍はなすすべなく鎮圧されてしまう。松前藩はこの勝利によって支配地域を拡大し、アイヌに対してさらなる搾取と酷使、非道な弾圧を加えていくことになる。

 最高気温30度前後が続き、数度の台風も押し寄せた北海道だが、秋の訪れが感じられる日々となり、円山公園のおしどりや鴨も飛び立ちの準備を始めている。9月23日はシャクシャインの命日とされる日で、真歌(新ひだか町静内)では民族の英雄を追悼する厳かな祭りが執りおこなわれる。