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北海道開拓の先覚者達(78)~アイヌ民族―3更新日:2016年09月01日

    

 前回、「アイヌ民族は稲作を選ばず、商業的狩猟民の道を選んだ」と書いた。彼らは交易民として、どのような「産物」を提供し、どのような品を得ていたのだろうか。第1に浮かんでくるのが寒冷地の北海道に生息するクマなどの陸獣やアザラシなどの海獣の毛皮だ。

 アイヌコタンでおこなわれる大きな“祭り”の1つが「クマ送り」。アイヌはこの世に生息する動物や植物、さらには自然現象を「カミ(霊的存在)の仮の姿」であると考えており「カミ」はその役目を終えると仮の姿を脱いで「カミ」の世界に帰ると信じている。肉や毛皮を土産(人間への贈り物)に、アイヌモシリ(この世)を訪れたクマを「カミ」の国に丁寧に送り届ける儀式が「クマ送り」なのだ。

 アイヌは雪がしまって歩きやすくなった春先に「穴グマ猟」をする。クマが冬ごもりしている穴を見つけて丸太で穴をふさぎ、怒って出ようとするクマを毒矢を放つか毒を塗った槍で突いてクマを倒す。親グマは毒の回った部位を除き食料にし、毛皮は交易に用いられる。

 同じ穴にいる子熊はコタンに持ち帰り、人間の子どもと同じように家の中で育てる。アイヌの女性が乳を与えている様子も多くの絵で見ることができる。大きくなると屋外の丸太で組んだ檻に移して1年か2年ほど育て、その後集落を挙げて盛大な送りの儀礼をおこない、二本の丸太で首を挟んでヒグマを殺し、その魂をカミの世界に送り返す。このように、飼育したヒグマを対象にした儀式だけをイオマンテと呼ぶそうだ。

 本日(2016年8月18日)の日本経済新聞に「続縄文期のクマの彫刻が、礼文島で発見された」という記事が掲載されていた。わずか3センチの小さな彫刻だそうだ。前回紹介したように続縄文期は本州の弥生時代に相当する今から2000年ほど前。そもそも礼文島でクマの生息は記録されていない。にもかかわらず、クマが彫刻として飾り物になっていたということは、いかにアイヌがクマに対し特別な信仰を抱いていたかをうかがわせる。

「日本書紀」によると、660年、越の国(北陸)の守(かみ)阿倍比羅夫(あべのひらふ)がオホーツク人(ギリヤーク人で続縄文人と敵対し、蝦夷地に進出していた)を討つため渡島半島に攻め入り、戦利品として70枚のクマの毛皮を持ち帰ったと記録されている。クマのほかにもアザラシやトドなどの海獣も交易品として捕獲され、本州方面に送られていた。また、クロテンの毛皮は大陸で珍重されており、蝦夷錦や飾り玉と交換するため、遠路、樺太のアイヌを経由して黒竜江河畔で明国や清国との交易に用いられていた。

 さて、戦後から十数年間、「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭が北海道経済の一翼を担っていた。私の父も天塩炭鉱鉄道に関係しており、天塩の鉱山から石炭を搬送する鉄道が積出港の留萌まで敷設されていた。ダルマストーブがある貨客兼用の列車に乗り、日本海沿線を天塩迄行った記憶がかすかに残っている。

 旭川博物館の瀬川館長の著書「アイヌと縄文」には、この留萌管内沿岸の地が「陸の孤島の大集落」として登場している。9世紀末になると、アイヌは松前から余市を経て日本海沿岸を北上し、各地に大集落を構えたとされる。それら集落に共通するのは、主な河川の河口上流に配置されていることだ。河口からは丸木舟で容易に行き来ができる場所だ。

 子どもの頃カニ釣りで遊んだ留萌川、松浦武四郎の銅像が建っている小平町の古丹別川、豊富町の天塩川など、この地域の河口から1、2キロさかのぼったところに大集落があったという。小平町の高砂遺跡には200軒以上、天塩川河口のサロベツ原野には800軒近い擦文時代の住居跡が発見されている。これらの地域は冬が長く、しかも冬期間は連日猛吹雪。もちろん農耕には不向きであり、海産物といってもサケの遡上はなく、ニシンは押し寄せるが、保存がきくものではなく交易品にはなり得ない。せいぜい小魚を食する程度の地域である。なぜこのような地域に大集落が存在していたのだろうか。

 瀬川館長はこの地域こそ、交易の流通拠点であり、中継基地であった可能性が高いと考えている(「アイヌと縄文」より)。この時期(9世紀末)に交易で活躍していたのが樺太アイヌで、彼らは樺太の南端の能登呂から宗谷海峡を越えて稚内に行き、その後、苫前、留萌などの河口で停泊しながら南下し、松前で交易活動したのだろうと瀬川氏は指摘している。

 留萌や苫前などの途中停泊地で食料や水、さらにはクマやアザラシの毛皮、石狩河畔で獲れたサケを乾燥したものなどを樺太アイヌに提供し、オオワシの尾羽や飾り玉などの大陸の品と交換していたのではないだろうか。子供の頃に過ごした地が「北のシルクロード・ファーロード」の中継地であったとすると、何か特別な思いが込み上げてくる。

 アイヌ民族にとって貴重な食料であり、交易品だったのはサケ。以前、イシカリ13場所に触れたことがあるが、今の石狩川およびその支流、豊平川、夕張川、島松川には膨大な数のサケが遡上していた。アイヌはこれらの河川の上流にある産卵場でサケを捕獲していた。なぜ上流の産卵場で捕獲するかというと、遡上する前の河口近辺のサケは脂肪が多く、保存がきかず交易のために用いるには適していない。しかし必死の努力で産卵場迄辿り着くと、サケは殆どの脂肪分を使い果たしている。アイヌの人達は捕獲した産卵後のサケを天日干しにし、住居の天井に吊るして炉の煙で燻して保存用に加工した。これらのサケは主に交易用に用いられたが、産卵後のサケであるから、資源保護にも配慮したのだろう。この時期(擦文時代:本州の奈良・平安時代)は蝦夷地と本州との交易が自由活発に行われ、サケは鉄器などと交換され、アイヌは自由で豊かな生活を送っていたのかもしれない。

 豊かなサケ資源は和人たちにも大きな魅力であり、15世紀に入ると和人も渡島半島の南部(松前、江差、函館)に館を設けて居住するようになる。アイヌとの交易も盛んになっただろう。

 この当時、蝦夷地だけで50万人を超えるアイヌ民族が住んでいたとのことだが、現在は2万数千人(推定)に減っている。なぜアイヌ文化が衰退させられ「自然界をカムイ(神)として尊び、祈り、歌い、踊り、命を輝かせ、賑やかで、笑い、泣き、怒り、喜び、まことに豊かな暮らしを送ってきた(知里幸恵・アイヌ神謡集)」アイヌが苦難の歴史を歩まなければならなかったのか。アイヌ三大蜂起と呼ばれる「コシャマインの戦い」、「シャクシャインの戦い」、「クナシリ・メナシの戦い」、松前藩の圧制、場所請負制度、資源の減少、明治政府以降の「旧土人」政策など、複雑な要素が絡み合っていると思うが、そのあたりを次号以降に触れていきたい。

 8月21日は開拓神社「大神輿」の渡御が予定されており、230人を超える一般市民が参加に応募し、500人を超える神輿会の方々と一緒に曳き、担ぐ予定だった。しかし、当日は青空が広がっていたものの、気象庁の予報では札幌地区に大雨・洪水・雷雨警報が発令中。北海道神宮の宮司さんは止む無く中止の判断をなされた。神宮境内には100人を超える参加申込者が集まっていたが、開拓神社の参拝と大神輿前での写真撮影で散会せざるを得なかった。

 当日、札幌はおおむね晴れであったが、台風11号の影響で道東地方中心に今まで経験のないほどの大雨で、各地に洪水を引き起こした。取り入れ間近の玉葱やトウモロコシが水浸しになっている画像がテレビに一日中映し出されていた。開拓神社は札幌のみでなく、北海道開拓にご功績のあった方々を祀っている神社であり。被災した方々のことを思うと、まことに正しい判断であった。次の渡御は2年後の2018年。「北海道命名150年」のお祭りに、道内はもとより全国から集まった数千人の「先覚者の子孫」で「大神輿」を担ごうではないか。
 夏休みが終わり、200人を超える小学生や幼児の参加も無くなり、朝のラジオ体操もいつもの平静さに戻った(いくばくかのさみしさはあるが)。