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北海道開拓の先覚者達(75)~屯田兵制度―5(平民屯田)更新日:2016年07月15日

    

 まだ谷間に雪を残した大雪山連邦が右手にそびえ、どこまでもまっすぐな道が続く。青々と順調に育っている稲田が車の両側を次々と通り過ぎていき、行きかう道路標識には●●兵村という文字が次々に現れる。上川地方の開拓に尽力された屯田兵の方々の足跡が、豊かに実った田畑に遺されている。目指したのは永山神社。北方の警備と開拓を進めた屯田兵司令官・永山武四郎の姓を取り、この地は1890(明治23)年に永山村とされた。

 永山神社は岡山出身の屯田兵が出身地の氏神(天照大神、大国主命)を祀ったのが始まりだが、1920(大正9)年には永山武四郎も合わせて祀られ、永山神社の守護神となっている。村の名前も神社の名前も永山。いかに永山武四郎が屯田兵や村民から崇拝されていたかがうかがわれる。鳥居前には、永山神社創基百年を記念し1994(平成6)年に建立された永山の像があり、神社と永山の町を守っているかのようである。
 
 1871(明治4)年に廃藩置県が施行され、明治政府は中央集権を目指した。従来の藩はほぼ解体され、武士もその大半が士族になった。しかし、官位に就くもの以外は収入の道が途絶え、農業や商業に携わらざるを得なかった。「武士の商法」とも言われ、慣れない商売に就く者もいたが、多くの士族は失業し疲弊していった。このままでは「西南の役」の様な士族の反乱が各地に拡大し、混乱を引き起こしかねない情勢に至った。

 そこで、明治政府は士族を北海道に開拓移住させるべく「移住士族取扱い規則」を制定。「屯田兵に志願する者は士族でなければならない」というのが、屯田兵制度の条件であった。琴似や山鼻の屯田兵村には東北諸藩の旧藩士が中心となり移住し、また新琴似や篠路兵村には九州や中四国の旧藩士が入植している。いずれも、武士としての教養と気骨が酷寒の地における開拓と国土防衛に大きく寄与したと言えるだろう。

 1882(明治15)年、開拓使が廃止され北海道庁が設置された。初代の岩村通俊に続き、永山武四郎が屯田兵司令官を兼ねて2代目の北海道長官になる。永山は海外を視察する中でコサックの屯田兵制度を研究し、屯田兵拡大の計画を立てた。しかし、士族だけでは必要人員が充足できず、1890(明治23)年に「屯田兵条例」が改正され、同年に「屯田家族条例」が制定される。屯田兵になる条件としての士族が廃止され、いわゆる「平民屯田」の時代に移行し、そこから屯田兵の改革・増員計画は急速に進んでいった。

「平民屯田」の始まりが1891(明治24)年に上川地方(現在の永山村)に設営された兵村である。西永山兵村に200戸の第一中隊が、そして東永山兵村に同じく200戸の第二中隊が出来上がった。1891(明治24)年7月、10府県から400人の屯田兵とその家族が上川に到着。彼らのうち徳島県出身者が113戸を占めていた。農民出身が多かったこともあり「平民屯田」制度は「士族屯田」に比べて農業では好成績を収めたといわれる。

「平民」といえども「兵士」。屯田兵およびその家族には士族と同様の気骨を求め、琴似や山鼻に入植した「士族屯田」と同じような武士的意識を持たせた。それが、1890(明治23)年に制定された「屯田兵員家族教令」である。

 その前文には「屯田兵は重き護国の義務を負い、かつ宅地殖産の任を担うものにして、その責任軽からずは言うまでもなく、世に比類のなき政府の保護を受けるものなれば、(略)その厚き保護の大恩に報いること」と書かれている。

 平民屯田兵には兵屋、1万5000坪の土地、さらに米や惣菜料、日常の生活用品、農具・工具などが支給されており、このことが「比類の無き政府の保護」とされているのだろう。

「屯田兵家族条例」は前文に続き20項目の細則からなっているが、そのすべての規則は「汝等(なんじら)」から始まっている。戦前の教育勅語「汝臣民(なんじしんみん)、父母に孝に、兄弟(けいてい)に友(ゆう)に……」と同じ論調である。

 細則の第1条は「汝らの服する屯田兵役は兵員の一身に止まらず子弟にも及ぶものにして、(略)武士の列に加わりたるに等しければ、専ら忠節を重んじ、武勇を学び、廉恥(れんち:はじ)を重んじ、武士たる体面を汚す様の事あるべからず」と、平民であっても士族と同等の意識・行動・生活を求めている。

 入植した上川盆地は河川がめぐる広大な土地で、樹林も少なく開墾が比較的容易な場所。夏は暑く米作にも適し、その後の上川穀倉地帯へと拡大していく。しかしながら、日露戦争に298人が招集されて33人が戦死する。上川盆地が良質の米を豊かに生産するようになったのは、多くの屯田兵たちが去った後であった。

 旭川から国道12号線を札幌に向けて走ると、滝川の手前に江部乙(えべおつ)町がある。永山屯田村に平民屯田が移住した3年後の1894(明治27)年、この地に400戸が移住し北江部乙兵村を開村した。北辺の警備と開拓がその任務であるが、樺戸(かばと)監獄の囚人監視も担わされたという。

 国道12号線沿いの「滝川道の駅」の裏に、当時のままに屯田兵屋が再建されている。うっかりすると見過ごしてしまいそうな場所にあり、見学する人もほとんどいないようであった。滝川市役所支所の職員にカギを開けていただき、中を見ることができた。厳寒の地であるのに、暖は炉(いろり)のみ、隙間風が否応なく吹き込む板張り、天井は無く高い屋根まで吹き抜け。このような家でよく寒さをしのいだものだ。当時の方々の辛抱強さを思い、また、たくましさを感じた。

 兵屋の外には「屯田兵の家族の像」があり、軍服を着た屯田兵とその妻、男の子と女の子、それに屯田兵の母親と思われる年老いた女性の5人が晴れがましい面持ちで立っている。このような家族400戸がこの地を開拓するため、懸命に様々な労苦に耐えていたかと思うと心が痛むと同時に、感謝の思いが込み上げてきた。

 1894(明治27)年7月、江部乙屯田兵が入村した翌々月には子弟の教育のため仮教場ができ、183人の子弟が5学級で学び始めている。同年11月には滝川北尋常小学校が開校し、1896(明治29)年に北辰尋常高等小学校と改称されている。1975(昭和50)年に開校80周年を記念し、校舎跡地に碑が建てられた。その碑には、北辰小学校の校歌が刻まれている。

 清く永久(とわ)なる石狩の 流れを拓祖(たくそ)の生を汲む
 栄えある歴史の学舎(まなびや)は 我が北辰の光なり

 この地の開拓に取り組み、今の繁栄をもたらした祖先への思いが込められているようだ。

 屯田兵制度は1875(明治8)年の琴似に始まって全道に37兵村が配備されたが、1904(明治37)年に廃止された。屯田兵の総数は7337人に上り、家族を含めると3万人近くが北海道の開拓と北方の警備の任にあたった。これらの方々のご努力が今の北海道の礎になったのは言を待たない。さらに、屯田兵及びその家族の高い規律、倫理感、教養、我慢強さが未開の地を切り開き、現在の北海道の原点を創り上げたと言えるだろう。

 先人のこうした開拓魂がどれだけ今の我々に受け継がれているのだろうか。残念ながら、どこかで失ってしまっていると思わざるを得ない。まだまだ北海道には可能性が多くあり、残された開拓・開発の余地は眼の前に広がっているはずだ。農業、観光、自然エネルギー資源、水資源、森林資源、交易、首都・本社機能の移転、等々。

 本日(7月14日)の新聞には日本の人口減少が続いており、中でも北海道が最も減少数が多いと報道されている。屯田兵の方々から受け継いだフロンティアスピリットを今こそ発揮しなければと思う。

 2カ月も経たないのに、親鳥と見紛うほどに成長した13羽のオシドリのヒナが元気に円山公園の池を泳ぎ回っている。13とは言わないまでも、せめて人口を維持する2.07の出生率が北海道で実現できたなら……。