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北海道開拓の先覚者達(68)~松浦武四郎(補筆1)~更新日:2016年04月01日

    

 開拓使判官・松浦武四郎が蝦夷地を北海道(北加伊道)」と命名したのが1869年。2年後には命名150年を迎えることになる。では正式に命名された日はいつなのだろうか。北海道史で1869(明治2)年を開くと8月15日には必ず「蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を置く」と書かれている。開拓神社の案内板にも8月15日を「蝦夷地を北海道に改称した日」としている。しかし、この日がどのような基準で命名の日となったかの詳細については極めてあいまいである。 

 実際、歴史家たちの著した書籍でも、命名の日は様々である。1967(昭和42)年に刊行された「北海道のいしずえ四人」の共著者、井黒弥太郎・片山敬次の両氏は、岩村通俊の巻で8月15日とし、黒田清隆の巻では7月27日(太陽暦9月30日)としている。昭和58年刊行の「北海道の研究(2)」で、著者の榎本守恵氏は命名日を8月15日としているが、道名公布人の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)長官が就任したのは8月25日とも記しており、一貫性に疑問が残る。

 また2010(平成22)年出版の「北海道の歴史がわかる本」で、共著者の桑原真人・川上淳の両氏は「北海道正史は命名日について、極めて“あっさり”と触れているに過ぎない」と述べている。

 さて、1999(平成11)年に刊行された「北海道人―松浦武四郎」では、著者の佐江衆一氏が、この辺りのことについて、詳細に記載している。

1869(明治2)年6月8日:松浦武四郎蝦夷地開拓御用掛
1869(明治2)年7月8日:開拓使が新設される
1869(明治2)年7月17日:武四郎「道名の儀につき意見書」提出、さらに、国名に5国案と11国案を提出し、11国案が採用されまた86の郡名を提案し、その通りに決まる
1869(明治2)年7月25日:松浦武四郎大主典の辞令を受ける
1869(明治2)年8月2日 :松浦武四郎開拓判官を拝命
1869(明治2)年9月19日:東久世長官から「北海道名、国名、郡名選定」の賞辞
 1869(明治2)年9月27日:蝦夷地を「北海道」と」改称する公布発行

 今後、歴史学者による精査が必要と思われるが、私は佐江衆一氏の説、9月27日が最も妥当な日ではないかと思っている

 すでに何度か本ブログで取り上げたが、松浦は6つの道名案(「北加伊道」「日高見道」「海北道」「東北道」「千島道」)を提案し、その中から「北加伊道」が選ばれ、その後「北海道」となった。ちなみに松浦の号は「北海道人」である。アイヌ語で加伊(カイ)」はこの土地で生まれた者の意味で、「夷人(アイヌ民族)自らの国を加伊(北のアイヌ民族が暮らす大地)という」ことから、松浦はアイヌ民族の郷愁が漂っている「北加伊道」を推薦したと思われる。

 松浦は開拓使判官に任命される以前に4度蝦夷地を訪れており、アイヌ民族の物静かでおとなしく、優雅な身のこなし、優しい笑顔に親密な思いを寄せ、体の奥に秘める真の強さを感じていた。一方、アイヌ民族の人たちを酷使し、また非人道的に扱う松前藩と場所請負人に対し、心底から込み上げるような怒りを抱いていた。

 今回と次回の5回にわたり、松浦が著述した「近世蝦夷人物誌」など多くの文献から、松浦のアイヌ民族に対する愛情と、彼らの和人から受けた悲惨な(地獄のような)生活について記載していきたい。なお以下からは武四郎と称することとする。

 1845(弘化2)年、武四郎は28歳で蝦夷地に渡航した。これが彼の第1回目の蝦夷地調査である。当時、和人地は渡島半島の3分の2ほどで、広大な蝦夷地はアイヌ・モシリ(アイヌ民族の大地)であった。しかし、蝦夷地沿岸の漁場には場所請負人が多数押し掛け、アイヌの人々をサケマス漁に使役していた。武四郎は、東蝦夷地を調査し知床岬まで走破したが、行く先々で、場所請負の番人たちがアイヌの人々を棍棒で打ち付けるのを目にした。

 武四郎を見る彼らの目には、深い悲しみがにじみ出ている。アイヌの人たちを初めて見た武四郎は「なんと純朴な人たちだろう」と、愛しささえ感じた。アイヌの男性たちは、真っ黒な髪で長い髭を伸ばしたくましい体つきなのに、物静かでおとなしい。

 第1回の蝦夷地訪問で武四郎が感じたのは「アイヌの人たちをこのように酷使していては、南下を目論んでいるロシアに従属させられるかもしれない。松前藩には蝦夷地を任せられない」ということだった。武四郎は旅に出ると1日30キロから50キロも歩き、見たこと、感じたこと、そして調査した地勢を克明に手帳に記し、夜間にそれらを整理して記帳していった。その年の12月に箱館を出発して江戸へ戻ると、その記録をもとに「初航蝦夷日誌」の執筆に取りかかった。

 翌1846(文化3)年、武四郎は29歳で2回目の蝦夷地渡航に赴いた。向かった先は西蝦夷地(イシカリ)、北蝦夷地(樺太)。この調査の間、武四郎は、アイヌの人々とのかかわりを通じて、アイヌ語を自由に聞き、話せるようになっていた。アイヌの人々と語り合う中で武四郎を驚愕させたのが、松前藩の収奪が膨大な運上金を場所請負人たちから巻き上げている事実だった。東蝦夷地だけでもクスリ(釧路)場所で5060両、アッケシ(厚岸)場所で600両など。主に松前在住の場所請負人から松前藩に運上されている。もちろん、この運上金はアイヌの人たちをただ同然で酷使して得たものだ。

 武四郎は、これら運上金の実権を握っているのが松前藩家老・松前広当(ひろまさ)と、沖の口奉行の藤田六郎で、さらに松前藩藩士は場所請負人と結託して私腹を肥やしていることも知った。

 武四郎は両名を痛烈に批判し「天保の初めころ(1830―35年)に1年間で収納金が6~7000両だったものが、両名によって1万4000両にもなっている。その連中に、びた一文なりとも収めるのは業腹である」と記している。彼らに対する武四郎の怒りは抑えきれないほどに増していた。

 武四郎がイシカリ川の上流、トクヒラという村(コタン)に行った時のこと。アイヌの村人たちは、自分たちの言葉を理解し話す武四郎を、たき火の輪に招いた。彼らが武四郎に伝えたのは悲しいアイヌの夫婦の話だった。

「このコタンに、漁の腕が立つエカシヘシと、気立てがやさしく素直なイヘシラシという夫婦がいた。妻に横恋慕した場所請負の番人が夫を遠方の漁場に行かせ、その間に妻のイヘシラシを強引に犯した。その時イヘシラシは夫の子を身籠っていたという。番人はイヘシラシに毎日、無理矢理唐辛子を煎じて飲まし子を堕そうとするが、イヘシラシは病にかかり死んでしまったという。夫のエカシヘシは戻ってきたが、事の次第を聞き、ひとり小屋を抜け出しトウフツまで川を上り、その川べりの大木で首を吊って命を絶った」

 武四郎はその後樺太に渡り、最南端の白主から5月10日に北上。あるコタンに泊まった。武四郎はそこでもアイヌの人々の優しさに触れる。戸主は釣り上げた大きなヒラメを塩焼きにして武四郎に振る舞い、酒を酌み交わし、小屋へ泊めた。夜半に起きると、いろりが明々と燃えている。武四郎が寒くないよう寝ずに薪をくべていたのだ。「なんと心やさしい人々か」。武四郎のアイヌ民族への愛情と信頼はますます高まっていった。

 江戸に帰って再度「再航蝦夷日誌」執筆に取り組み、1848(弘化5)年の正月、31歳を迎えた武四郎は「憂北生 北海道人」と号した。
 第3回、第4回の蝦夷地渡航に就いては次回に記したい。

 福岡、大阪と北上した桜前線も東京に至り、そろそろ満開を迎えようとしている。札幌では彼岸を過ぎても名残雪が降り続いている。

 ラジオ体操の帰り、円山公園で枝払いした桜の枝を頂戴し、花瓶に活けておいたが、今、我が家で満開になっている。ひと足先に札幌にも春が訪れたようである。