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北海道開拓の先覚者達(66)~島義勇(補筆)~更新日:2016年03月01日

    

「弥生雪国」、もう3月に入ろうとしているのに真冬日が続いている。今朝のラジオ体操へ向かう道すがら、雪を踏む足音が「ぎゅぎゅ」と、きしんで聞こえてくる。夜通し降り続いた雪が木々を覆い、朝陽にキラキラ輝いている。北海道神宮前の島判官像にも雪が積もり、まるで白い毛糸の帽子とマフラーを着けているかのようだ。

 開拓使判官・島義勇については、本ブログ第1号で取り上げたが、すでに3年近くが過ぎている。嶋についての「補筆」を少々。

 私が尊敬していたある方が昨年、不慮の事故で亡くなられたが、その前に貴重な本を寄贈いただいた。その本は島義勇漢詩集「北海道紀行」といって、札幌西高校、小樽桜陽高校、岩見沢西高校で教鞭を取られた上田三三生(ささお)氏が、見事な訓訳および訳注を加えて1974(昭和49)年に刊行したもの。島が開拓使判官に任命されてから札幌本府建設に奮闘し、道半ばで罷免されるまでの半年間に詠んだ40首の漢詩集だ。

 各漢詩は原文、訓読み、訳で紹介されている。この本から伝わってくるのは、島が北海道本府建設に取り組んだ際の並々ならぬ意気込みと、道半ばに終わった悔しさだった。ここではその中からいくつかを取り上げて紹介する。漢詩の原文そのものは難しすぎるので、訓読みと概要の訳を記すことにする。

 遡方万里荒菜を闢く

(北方万里の遠い北海道の原野を開く)

 位を賜ひまた殊に御杯を賜う

(天皇様から位を頂戴し、さらに杯を賜った)

 開墾の規模是れ臣が任なり

(大規模な北海道開拓が私に与えられた任務だ)

 営々何ぞならはん勒銘(ろくめい)の才

(粉骨砕身する覚悟で取り組む覚悟であり、あえて銘を刻み、後世に名を遺すようなことは願っていない)

 1869(明治2)年8月15日、島は従四位の北海道開拓判官に任ぜられ、石狩国に北海道本府を建設する大命に任ぜられた。9月3日には、皇居で明治天皇に拝謁し励ましの言葉と杯を受けた。この時の感激を詠んでいる。北海道開拓へ向かう島の心意気が溢れているのを感じる。

 北海道への出立を前に、島および開拓使長官の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)を慰労するため、明治政府の高官4人、右大臣の三条実美(さんじょう・さねとみ)、大納言の岩倉具視(いわくら・ともみ)・徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)・鍋島直正(なべしま・なおまさ)が、ある夕2人を岩倉邸に招き宴席を設けてくれた。島の感激はいかほどであっただろうか。次の詩はそれを詠んだものだ。

 右大臣三条公、大納言岩倉公、大納言徳大寺公、我大納言鍋島公一夕東久世長官及び義勇等を岩倉公邸に於いて 置酒慇懃

(ある夕、東久世長官及び私義勇を岩倉公邸に招き宴を設け、誠にねんごろに)

 以って遠役を慰める

(遠く北海道へ出向する我らの労を慰めて下された)

 賦して以て感を記す

(その感謝と感激を詩に現わした)
 
 佐賀(肥前)藩主の鍋島は初代開拓使長官だったがこの時はその任を辞していた。だが北海道開拓への思いはなおも強く、石狩本府開設に赴く直系の部下である島にその実現を託した。島に対する鍋島の期待とねぎらいの気持ちはいかばかりであったろうか。藩主自ら家臣の自宅を訪れ、門前に駕籠を置き酒宴を催し、また励ましの言葉と名工の造った品々を島に与えた。

 島は藩主の好意に感激し、その名誉を「一夜徳星我が家に臨む」(ある夜誠に目出度いしるしの星が我が家を照らし給うた)と表現している。

 賢公此の日幸いに光臨し

(ありがたくも鍋島公がこの日おいでくださり)

 笑みて巨杯また徳音を賜う

(笑みを浮かべ、御酒を大きな杯で賜り、いろいろとお言葉を戴いた)

 独り微衷の高意に副うを喜ぶ

(自分の意見が鍋島公の気持ちに沿うことを知り、ひそかに喜んだ次第である)

 欣然駕を留めて宵深にいたる

(公もご機嫌よく夜が更ふけるまで駕籠を門前に置きお留まりになった)

 八月晦日、わが大納言閣下

(8月30日、わが鍋島大納言閣下より)

 紫金刀装一具を賜う
(紫金刀装一式を賜った)

名工某のつくるところ

(某名工が造った逸品である)

 感戴何ぞ禁ぜん 乃ち(すなわち)賦して謹み手記す

(この感激をどうして禁じ得ようか、謹んでこの詩を記す)

 1869(明治2)年9月20日、島は東久世とともにイギリス船「テームズ号」へ「に乗り込み品川を出港し、箱館に向かう。以下の詩は船の中で詠んだものだ。

 海城飛駆す奥州湾

(海に浮かぶ城のような巨船テームズ号は飛ぶように航走して、早くもここ奥州湾の沖合に来た)

 草木依然たり昔日の顔

(以前この地を巡遊した時と草木に変わりはない)

 憫殺(びんさい)す仙台南部の地

(しかし、哀れなことに、ここ仙台や南部の地は維新の際官軍に抗戦したため朝敵となった地だ)

旧封空しく削る幾名山

(いくつもの名山を有した領地を空しく失ったのだ)

 9月25日、一行は箱館到着。本府建設の任を受けた島は開拓三神を背に負い、10月1日に箱館を出発し陸路石狩に向かった。途中、困難を極めたのが黒松内(現在の長万部町と倶知安町の間)、ここで島は漢詩2首を詠んでいる。

径は水田の若(ごと)く転覆し易し

(道はぬかるみで、まるで水田のよう)

淤泥(おでい)凸乙馬腹に及ぶ

(汚泥にでこぼこがあり馬の腹に及ぶくらいだ)

風雪禁じ難く憩うに家なし

(風雪は激しく耐えがたく、休むにも家はない)

壮士は呼(おら)び女子は泣く

(大の男も音を上げ、婦女子は泣きだす)

故園の子弟定めて平安ならん
(故郷の若い者達は平穏無事に暮らしている)

誰か識(し)らん老躯ここに寒に苦しむを

(老躯の私がここで寒さに苦しんでいるとは誰も知るまい)

唯(ただ)皇家恩顧の渥(あつ)きにより

(ただ天皇の恩顧の深く厚いがため)

辞せず荒服路程の難きを

(僻辺の地の旅程の難儀をいとわないのである)

 黒松内を抜け、磯屋港(寿都の近くで現在の磯谷港)に到達し、雷電山(蘭越町と岩内町の間)を越えようとするが、あまりにも山は険しく海路を選ぶ。

 雷山険絶馬前(すす)み難し

(雷電山の険しさはこの上なく、馬では進めない)

 海程を取らんと欲すれば波天を拍(う)つ

(海路を取ろうとするも、天を打つ様な波浪である)

 勅を奉じて将に厳内港に過(よ)ぎんとす

(我らは天皇の勅を奉じて岩内港に向かおうとしている)

 神如(も)し識(し)るあらば吾が船を護れ

(神よ我らの任務を知っているならば、どうか我らの船を安全に護って頂きたい)

 島一行の祈りが海神に通じたのだろうか、海は静まり、無事岩内港に到着することができた。一行は海神に酒を供えて感謝の意を表した。

 知る海若奔濤を叱詩

(海神が猛り狂う波濤を叱りつけたのだろう)

 安穏護り来るわが両艘

(穏やかに我らの船二艘を守護して下さったのを私は承知している)
 請う見よ渡頭人達するの後

(見るがよい、岩内港に到着し上陸したとたんに)

 風波旧の如く雪山高し

(強風波浪は元通りの激しさになり、遠くには険しい雪山がそびえている)

だがその後も一行にはまだまだ試練が続く。岩内から余市に向かう山道の途中、山中笹家(現在の稲穂峠にある旅籠)があった。

 雷電山下一径通ず

(雷電山のふもとを一筋の小道が通じている)

 満天の飛雪北風に舞う

(満天の空、吹雪が烈しい北風に舞っている)

 我は綿袍を着るも肌凍えんと欲す

(自分は綿の陣羽織を着ていてもなお肌が凍えるようである)

 尤(もっと)も憐(あわれ)む郷導の白頭翁

(憐れむべきは粗末な衣服しか身に纏っていない道案内の土地の老人“アイヌ民族か”である)

 10月1日に箱館を出発し、酷寒の地で苦難を重ねながら走破して10月12日に銭函に到着した。仮役所を設けてそこに開拓3神を安置し、札幌での本府開設作業調査をおこなうため、天気が回復するのを待った。

 銭函村に滞(とどま)る、風雪太甚(はなはだ)し、晴を祈る
 誓って荒原を闢(ひら)き此の民を栽(う)えん

(北海の荒原を開拓し、良民を安住させたい)

 満天の風雪政(まさ)に嗔(いか)るべし

(人が生きることを拒絶するようなこの満天の風雪に対し、まさに憤りを感ぜずにいられない)

 判官到る処皇威布(し)く

(天命を奉じた開拓判官であるからには,到るところ皇威を宣布し)

 好し厳寒を化して麗春と作(な)さん

(厳寒を麗しい春に変えたいと決心した)

 銭函に到着した翌日から部下を調査に先発させ、自身は本府建設の構想を重ねる。11月1日、札幌円山付近からまだ原野だった現在の札幌市街を視察し、自身の構想と合わせ、この地こそ本府建設にふさわしいと確信する。この時に詠んだのが、有名な次の漢詩である。

 将に府を開かんとし、地を石狩国札幌郡中に相す。賦して以て祈る
 河水遠く流れて山隅に岨(そばだ)つ

(遠くに川がとうとうと流れ、山並みがすぐ近くにそびえている)

 平原千里地は膏沃(こうゆ)

(平原が見渡す限り続き、地味は肥沃である)

 四通八達よろしく府を開くべし

(交通は四方八方に通じ、都とし最適である)

 他日五州第一の都

(いつの日か、世界一の都になるであろう)

 11月10日、一行は札幌に入り本府建設の縄張りに着手。本格的な作業が開始される。12月3日、第一番官邸が落成し開拓3神を祀るが、島一行の前には次々と難題が降りかかってくる。飢饉や運搬船難破よる食糧不足、長州出身者が主導する兵部省との軋轢、予算の枯渇による東久世長官との意見の食い違い、そして遂に東京への召喚……。

 この辺りについては次回で取り上げたい。