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北海道開拓の先覚者達(65)~美泉定山~更新日:2016年02月15日

    

 2018年の「北海道命名150年」を前に、「北海道の日」を設定しようとする動きが進んでいる。では北海道と命名されたのは何日なのだろうか。1869(明治2)年7月8日(新暦8月15日)に開拓使が新設され、同7月17日(新暦8月24日)にアイヌ民族に同情的だった松浦武四郎が「道名の義に関する意見書」を提出したとあり、ここまではほとんどの歴史書が同じである。

しかし「北海道史」年表では「蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を置く」日が8月15日である、と極めてあっさり触れているに過ぎない。歴史書を調べていくと「明治2年7月26日(新暦9月30日)、蝦夷地を改めて北海道と称し、鍋島直正に代わって東久世通禧が第2代長官に就任、新政が開始となった」と書かれている。旧暦・新暦(太陽暦)の違いがあるが、新しい時代になっており、9月30日が「北海道命名の日」とするのが妥当なのではないだろうか。

 2018年の「北海道命名150年」を前に、定山渓では今年(2016年)「開湯150年」を迎えた。国道230号沿いにある定山渓神社を舞台に、2月8日から12日まで「開湯150年記念雪灯路(ゆきとうろ)」がおこなわれていた。神社の周りには雪でできた「灯篭(とうろう)」が数百も置かれ、夜になるとロウソクが灯されて幻想的な趣を醸しだしている。

「あたたかな灯りが定山渓神社へと誘う(いざなう)道しるべ」、願いごとを書いたワックスホール(ロウソク)に灯をともし、雪灯(とうろう)まで運ぶと願いが叶うといわれているそうだ。

 定山渓温泉を見出し、その開発に老年期を捧げたのが僧・美泉定山である。定山渓温泉の源泉が流れ落ちている場所には、座禅姿の美山が冷水ならぬ温泉で滝に打たれている石像が置かれている。その横には「美泉定山は文化2年備前国(岡山県)で生誕、17歳のころより全国の霊地を行脚の後蝦夷に渡り、慶応2年アイヌ民族の案内でこの温泉にたどり着き、病に悩む人々を祈祷と湯治で救おうと努力しました。定山の心情は今なおこの温泉に脈打っています。ぜひ霊験改かな定山渓の湯の効用を直に感じてみてください。定山渓温泉」との案内板が置かれていた。

 美山は六尺(180センチ)近い大男で、太鼓腹に長い胸毛、丸顔で大きな目をし、誰も動かすことのできない道端の大石を取り払ったといわれる力持ちだが、一方において3歳の童子もよく懐く人柄で、人々からこよなく愛された人物だったそうだ。その姿を彷彿とさせる立像が定山渓ホテルの前に建てられている。そのかたわらには「生涯を通じて旅をし、ここ定山渓を終の地と選び、自らの名を「定山(山に定まるの意)」としました。山岳での修行によって験力を得、祈祷と温泉で人々の病を治し、苦難・災難を除きながら民衆とともに生きたのです」という案内が書かれている。

 ここは、深い森に囲まれた深山霊谷の地で熊や鹿の楽園だった。この人里離れた秘境の地に、美山以前にも何人かの先達が訪れていることが記録されている。1752(宝暦2)年には3代目飛騨屋久兵衛がエゾヒノキ(エゾ松)の伐木の為、またクナシリ・エトロフを調査探検した近藤重蔵(本ブログ2013年12月15日付)がアイヌの人に案内されてこの近辺を歩いているが、温泉には行きつけなかったようだ。1858(安政5)年、蝦夷地をくまなく走破した松浦武四郎(本ブログ・2013年8月15日付)がこの地を訪れ、温泉で旅の疲れを癒したと記録されている。このとき詠んだ句が「埋火(うずみび:炉端)を離れぬ人よ思い知れ 雪の上にて旅寝する身を」。寒さに炉端から離れられない者達に、雪に囲まれた温泉につかり、体を温めている旅人の事が分かるだろうか、と自慢げに詠んでいる。

 さて、定山は17歳のころより諸国を遍歴し、高野山で厳しい修験(しゅげん)した後、仙台で長く逗留し出羽三山、秋田太平山にこもり、40歳の頃松前に渡った。松前での滞在は短期で、小樽内張碓村に行き、ここに不動尊を祀った・これが現在張碓の三社神社にある「定山不動」で「海上安全 漁業円満 文久元年」という文字が刻まれている。

 張碓で10年近く暮らしたが、この頃小樽内は石狩役所調役の荒井金助(本ブログ・2015年10月1日付)が管轄しており、張碓川ほとりの鉱泉を開いて漁民に利用させていた。ある日、猟師をしているアイヌの人から、すばらしい温泉が湧いていることを告げられる。そのアイヌの人の案内で険しい山を越えてたどり着いたところが、今の定山渓温泉だ。温泉に仮小屋を建て、誰でも使えるようにしたが、なにせ山道は険しく、健康な者でも容易にその地に行くことは難しく、ましてや湯につかって病を治したい人達にとってはあまりにも厳しい道のりだった。

 1869(明治2)年、蝦夷地は北海道となり、10月には本府(開拓使本庁舎)建設のため島義勇判官(本ブログ・2013年6月1日付)が着任した。美山は島判官に会い、温泉開発に至る道路の開設を陳情し、島も快諾した。豊平川の渡守・志村鉄一の家に泊まった美山は、豊平川経由で温泉に行くまでの路線調査をおこなった。しかし、島は4カ月で判官の任を解かれ、その1年後に岩村通俊(本ブログ・2013年6月15日付)が後任としてやってくる。「傷ついた鹿もこの湯で命が救われる。人の身体も必ずや同様である」。美山は熱心に岩村を説得し続け、その思いが岩村を動かした。岩村は現地やそこに至る道路予定地を調査し、温泉が有望なことを認めて温泉を「鹿の湯」と呼び、官設の浴場を開設する(岩村は今のススキノに北海道で初めての遊郭を建てた人物でもある)。

 1872年、美山は57歳で開拓使から扶持米をもらい「湯守」を命じられる。札幌から豊平川沿いに人馬が通れる程度の道路が通じられた。同年10月には札幌から伊達までの本願寺道路(通称有珠道、現在の国道230号線)が開通したこともあり、温泉の利用者も次々と訪れて賑わいを見せるようになっていく。本願寺道路開設にあたり、その検分に立ち寄った2代目開拓使長官の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ:本ブログ・2014年3月15日付)は美山の功績を称えてこの地を「定山渓(雪山渓)」と命名した。

 定山渓温泉は湯治客で賑わったが、2年後の1873(明治6)年、大雨による大洪水で温泉郷に架る「回春橋」が流出。温泉宿・浴場も浸水して損壊。本願寺道路も決壊するという災難が定山渓温泉を襲った。さらに、同年開通した千歳回りの札幌本道(現在の国道36号線)により定山渓を通る人が激減し、定山は苦境に立たされた。

 翌1874(明治7)年、札幌は大不況で開拓使の財政は厳しく、温泉を維持する予算に困窮していった。開拓使は同年7月で官設を廃止し、温泉施設のすべてを美山に譲り経営をまかせることとした。しかし、独立経営は難しく、美山は札幌市中を托鉢したり、知り合いから借金を重ねるなど金策に追われた。

 このような苦境の中でも定山は、10年間世話になった張碓の住民たちを温泉につからせたいとの思いを持ち続け、定山渓・小樽間の谷間を通る道路を拓こうとする。しかし、それが実現しない内に定山は死を迎えることになる。

 1877(明治10)年の晩秋、道路開設のルートを調べるべく定山は深山に入り行方知らずとなった。その後、小樽に近い山中で死後半月ほど経って発見され小樽正法寺に葬られた。時に美山64歳、1878(明治11)年、12月31日であった。

 「ハアー 山はほんのりさくらにそめて たれに似たやら湯煙は すねてみせたり なびいたり 招く湯どころ定山渓」 (定山渓小唄)

 定山が温泉を発見して以来150年。幾百万(幾千万)の人たちが定山渓温泉を利用しただろうか。かつての観桜会や観楓会に代わり、家族連れの客や海外からの観光客で「札幌の奥座敷」定山渓は賑わっている。