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北海道開拓の先覚者達(64)~大鳥圭介~更新日:2016年02月01日

    

 中国経済と原油価格の急激な落ち込み、中東をめぐる地政学リスクの高まり、米国の金融緩和終焉による世界規模のマネーの逆流現象……。年初来、日本経済をめぐる外部環境は大きく揺れ動いている。このような中、政治家はただ選挙に勝つことのみの議論に終始しているように映る。アベノミクスを率いていた大番頭もガードの甘さを露呈し辞任に追い込まれた。大借金を抱え、少子高齢化で先の見通しがままならない日本国民を、どのように導いていくつもりなのだろうか。何の手も下すことなく、崩れるように自滅していった徳川幕府の末期のような様相である。トップだった将軍・徳川慶喜は生きながら得て、勲一等をもらい貴族議員にもなったが、徳川家および幕府に従った東北越諸藩の数十万もの家臣は碌を失ったばかりでなく、多くが捕らえられ賊として扱われた。このような悪夢を決して再現させてはならない。

 徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎し幕府が瓦解した時、独り気を吐く男がいた。僅か五尺九寸(149センチ)の小柄な身体ながら気骨に溢れ、江戸開城の日に旧幕府軍450人を率いて脱走。その後、榎本武揚や土方歳三らとともに新政府軍と戦いを繰り広げ、絶体絶命の窮地を何度も切り抜けた。それが今回の主人公・大鳥圭介(おおとり・けいすけ)である。

 この名を聞くと、昭和の夫婦漫才師で京唄子とコンビを組んだ鳳啓介を思い起こされる方もおられると思う。鳳啓介は漫才師になる前、先の大戦に出征し「本土決戦、一億総玉砕」が叫ばれていた時分、大鳥圭介の「無駄には死なない」人生に感銘を受け、芸名を鳳啓介にしたと語っている。五稜郭の戦いで敗北が決定的になった時、徹底抗戦を主張する同僚に「死のうと思えばいつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」と開き直り、榎本に降伏の決断をさせた男でもある。2015年、作家・伊藤潤が大鳥圭介の生涯を題材とした長編歴史小説を出版したが、その書名は「死んでたまるか」。

 明治の元勲・山縣有朋の孫(養子の子ども)である山形有信が書いた「大鳥圭介伝」では「東京より仙台に至るまで大小数十戦、仙台から五稜郭に至り数戦を試みたが、一度として自らの兵を指揮した場合に戦いに勝ったことはなし。終始負け通しだったが不思議に負けるとニコニコして帰ってこられる」と書いている。

 実際は兵力・火力で圧倒的に優勢な新政府軍に対し食料も弾薬もなく、友軍であった東北諸藩の軍勢にも裏切られたという背景もあったであろう。西郷隆盛や薩摩兵はフランス式兵法の第一人者である大鳥圭介の用兵を恐れていたと伝えられている。

 大鳥は箱館戦争の後東京の監獄に3年間収監されたが、榎本らとともに黒田清隆の懇請を受けて開拓使5等に任ぜられ、後に工部大学学校長、元老院議員、学習院院長、初代華族女学校校長などを歴任した。男爵の身分も得て明治政府の要職に就いた男である。

 さて、大鳥は1833(天保4)年に播磨国赤穂郡赤松村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)の医師の家に生まれる。赤穂郡上郡(かみごおり)町役場前には、大鳥が男爵になった時の銅像が建てられている。上郡町では激動の時代を生き抜いた郷土の偉人を多くの子供に語り継がせるべく「けいすけじゃ」というアニメを制作し、ホームページにも掲載している。このアニメは20話から成っており、2時間近いボリュームだ。

 このアニメ「けいすけじゃ」に従って、大鳥の生涯を見ていきたい。
大鳥の父親は片田舎の医者で、幼少から学問に興味を持った。祖父「純平じいさん」の影響を受けたとも言われる。「純平じいさん」は儒学をたしなみ、大鳥に論語を教えていた。「純平じいさん」が亡くなった後も大鳥の学問に対する思いは強く、13歳になって赤穂藩藩校の「閑谷(しずたに)学校」に入学する。武士の子が多い中でいじめも受けるが、持ち前の度胸で5年間を過ごす。

 17歳の時に父の知人である赤穂の蘭学者・中島意庵の門に入った大鳥は、父の後を継ぐべく医者修業をおこなう中で蘭学と出会い、その人生に大きな影響を受けることになる。初めて蘭学の原書に触れ、ぜひとも読破し学びたいとの思いがこみ上げ、中島意庵の紹介で緒方洪庵の適塾(適適塾)に22才で入門する。適塾については今まで何度か取り上げたが、福沢諭吉や高松凌雲など幕末から明治にかけて有能な人材を多数輩出したところである。

 適塾に入って間もなく届いた故郷からの手紙で、可愛がっていた妹の「もりえ」が天然痘で亡くなったことを知る。悲嘆にくれている最中、緒方が怖がって逃げ回っている子供たちに種痘を説明し施している姿に触れる。当時、種痘は恐れられ、白い目でみられていた。緒方は妹を失った大鳥に「蘭学を学べば天然痘を失くすだけではなく、新しい時代に必要な多くの技術を得ることができる。学問は人の為であり己の為のみにするものではない」と教える。適塾で学んでいる時期、ペリー艦隊が浦賀に来航し国中が騒然となり、1854(安政元)年の再度来航時には日米和親条約が結ばれる。

 このような中でも大鳥は蘭学に熱中し、語学力の素養と相まってその実力は誰もが認めるほどに高まっていた。西洋事情を知ろうとする各藩の求めに応じ、蘭語の書物を翻訳して生活費の足しにもしていた。一方、1年で帰郷して医者になると父と約束し、4両を送ってもらって大阪の適塾に入ってからすでに3年が過ぎていた。帰郷し片田舎の医者になるか、江戸で蘭学をさらに高めるか、大鳥の心は揺れた。その学問に対する思いは強く「帰郷する前に江戸に行くから土産代として4両送って欲しい」と父親に手紙を書く。父親は遂に帰ってくるかと喜び送金するが、大鳥は江戸で勝鱗太郎(勝海舟)に会い、その紹介で学者の大木忠益に学ぶことになる。

 だが大鳥は父親から送ってもらった金などとっくに使い果たし入門料を払えない。大木は「私に変わって塾生を教えてくれたら入門両はいらない」と、圭介に大木塾の塾頭を依頼する。大鳥はこのころまだ22歳で、先輩塾生たちは面白くなく、その実力を様々に試そうと次々に蘭語の難題を持ちかけるが、大鳥はそれらをすべて解いてしまう。大鳥の蘭語翻訳力は評判となり、諸藩からの依頼が殺到、懐は豊かになった。

 1857(安政4)年、25歳になった大鳥は、兵学・儒学の権威である江川塾に教授として迎えられる。江川塾は幕府の後ろ盾を持ち、諸藩の有能な塾生を抱えていた。兵学教授のかたわら中浜(ジョン)万次郎に学ぶ機会を得て、蘭語に加え英語も自由に扱えるようになった。さらに1860(安政7)年には蘭学所を手書きで写本するのでは大量に作成することができないことから、洋書で学んだ印刷機を基に、日本で初めての合金製活版(大鳥活字)を作成した。ここに至り、父の強い思いであった医師になる道をあきらめ、西洋式兵学を研究することになる。大鳥は江川塾の教授を務めながら尼崎藩に取り立てられ、武士の身分を得ることになる。これを機に6年ぶりに故郷へ帰り錦を飾る。祝いの宴席は盛り上がったが、父親だけは心中複雑な思いがこみ上げていたという。この年、相思相愛であった出雲藩士の娘・みちと結婚。江川塾には薩摩藩の黒田了介(後の開拓使次官、総理大臣)、大山巌(後の陸軍大将)も塾生として入門し、大鳥の教えを受ける。この関係が、箱館戦争の終焉のドラマに結びついていく。

 1860(安政7)年、桜田門外で井伊直弼が殺害された。さらに米国大使ヒューストンの暗殺、英国公使館の襲撃事件、英国水兵殺傷事件、そして島津久光の行列を馬で横切ったイタリア人の無礼打ち事件と、世の中が騒然となる中、攘夷の勢いは否応なしに高まってきていた。

 1868(慶応元)年、大鳥は洋式兵学の力量を高く評価され、33歳で幕臣に取り立てられ、その2年後には幕府歩兵奉行の地位にまで登り詰める。赤穂の片田舎の町医者の子が、陸軍の最高責任者の1人となって洋式兵学で幕府軍の立て直しに取り組むことになったのだ。

 大鳥はフランスから軍事顧問団を迎えて本格的な近代式陸軍を編成しようと画策。だが当時の歩兵は町人や農民が多く、覇気が全く足りない。そこで、大鳥は大名行列の籠の担ぎ手、火消し、博徒を集め、彼らを教練することとした。応募条件は身長5尺2寸(158センチ)以上で、149センチの圭介からは見上げるような大男が1000人以上も集まった。これを大鳥自らが調練し、一糸乱れぬ強固な伝習隊ができ上がった。彼らが戊辰戦争、箱館戦争で大鳥の指揮の下、勇敢に戦った者たちだ。

 1869(慶応4)年正月、鳥羽伏見の戦いが始まり、1万5000人の幕府軍は5000人の薩長軍に対し、圧倒的な火力差から惨敗する。将軍・徳川慶喜は大阪城からさらに幕府艦隊の主力艦「開陽」を経て江戸へ逃走。大鳥は江戸城で慶喜に会い、徹底抗戦を述べたが慶喜にはもはや戦う気力が失われていた。

 江戸城開城の日、圭介は自ら訓練した伝習隊450人を率いて江戸を脱走。途中で松平太郎(蝦夷共和国の副総裁)や土方歳三と合流し、2000人に膨らんだ兵力で本所、市川を経て小山、今市、藤原、会津で薩長を主力とした新政府軍と激戦を繰り広げた。宇都宮城の撤退までの間に300近い精鋭を失い、もはや平地での大会戦を行う余力は残っていなかった。大島軍は日光を目指し逃避行が始まった。日光の男体山を見、大鳥の胸に新たな闘志が沸き上がってきた――「負けてたまるか」と。

 日光に陣を張ることはできず。会津に向かうことにする。「六方越え」と呼ばれる険しい山道を62キロも進まなければならない。食料が途絶え、将兵1人に味噌ひと舐め、沢庵を1切れ、梅干1個しかあたらない。それでも大鳥はなぜか苦境に遭えば遭うほど、新たな気力が沸いてくるのだった。会津に向かう途中、切り立った六方峠で圭介は次の句を詠んでいる。「深山日暮れて宿るに癒えなし 石を枕に三軍白砂に駕す(野宿する) 曉鳥一斉天正に晴れる(朝方、鳥の声で目を覚ますと点はまさに晴れ渡り) 千渓雪は白し野洲花(白いつつじの花が渓谷に咲き乱れていた)」。

大鳥は敗戦に続く敗戦で仙台に逃れ、そこで榎本武揚率いる幕府艦隊に乗り蝦夷地に向かう。榎本と大鳥の思いは勝海舟を通して新政府に送った「蝦夷地植民許可の嘆願書」に記されている。「蝦夷地に幕臣を送り開拓に従事させると同時に、屯田兵としてロシアの南下に備えさせる」ことだ。この方向はその後の北海道開拓の基本として明治政府も採用した方針である。

 大鳥は蝦夷共和国で陸軍奉行として榎本を支え、土方歳三らとともに新政府軍と激戦を展開した。敗戦後、教え子だった黒田清隆の必死の助命活動で死を免れ、明治政府で主要な任務を果たしたことはすでに述べた。

 1908(明治41)年、榎本武揚が病に倒れると、大島は見舞いに駆けつけ、その後も連日電話で容態を聞いていたという。大鳥も1911(明治44)年、79歳の天寿を全うした。最後の瞬間、大鳥の脳裏に去来したのは広大な蝦夷の大地と、ともに戦った男たちの面影だったに違いない(死んでたまるか・終章)。