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北海道開拓の先覚者達(60)~関寛斎(2)~更新日:2015年12月01日

    

「どこか夕食をとれるところはありませんか」。寒空の中、70歳くらいのご年配が陸別の関寛斎資料館の前で声をかけてきた。一人旅で、ホテルの夕食を予約せずに陸別を訪れたらしい。どうも東京方面から来られた方で、関寛斎の遺徳を偲びにやってきたようだ。このような方々が次々とこの地を訪れているとも聞く。司馬遼太郎が「胡蝶の夢」や「街道をゆく」で、徳富蘆花が「みみずのたはこと」で、そして城山三郎が「人生余熱あり」で関寛斎像を描いている。72歳で厳寒の地に移住し、10年余りにわたり極限状態の中で開拓に取り組んだ寛斎の生き方は、多くの人に驚きとともに尊敬の念を抱かせているのだろう。翌日も資料館や関神社でお会いした。

 私の今回の陸別訪問では、札幌から同行頂いた伊藤一輔先生、関寛斎資料館の斎藤省三事務局長、そして陸別町文化協会の村松正敏会長がご案内下さり、関寛斎の生き様を懇切丁寧にご説明いただいた。深甚の謝意を表したい。

 今回は、関寛斎の生まれ育った時代背景と彼に多大な影響を及ぼした人たち、そして、その教えを守り通した彼の厳格、潔癖、頑固な生き方、一方において底抜けに明るく優しい心で人々に接した人間性について記していきたい。
 関寛斎は1830(文政13)年、上総の国・山辺郡(今の千葉県東金市)の貧乏な農家の長男として生まれた。幼名は豊太郎。3歳で母親と死別し、関家に嫁いでいた母の姉に引き取られる。13歳の時に関俊輔と養子縁組。俊輔は儒学者で、村の私塾でありながら門弟数百人を擁する製錦堂を開いていた。寛斎が長年連れ添った妻のあいも入門していたという。俊輔の素朴で土性骨の座った生き方は、少年時代の寛斎にとって人格形成の第一期を担う、大きな影響を与えたのだろう。

 1848(嘉永元)年、18歳になった豊太郎(後の寛斎)は蘭学を志して佐倉順天堂に入門する。創設者は蘭学者の佐藤泰然(たいねん)。医者としての心構えと高い実技を備え、当時としては最高の外科手術も施していた。その名声により日本各地から数千人の塾生が参加したともいわれる。貧乏な塾生であった寛斎は、拭き掃除まで熱心にやり、時間を見つけては勉強に取り組み、佐藤の助手を務めるまでに成長する。

 このころ、豊太郎は寛斎と改名。学問・医術で急速に頭角を現し、佐藤から高く評価されるようになる。この間で学んだことを「順天堂経験」という書に著すが、この書は現代において、当時の日本の医療水準や診療手法を知る貴重な資料となっている。寛斎は著述にも優れた才能を発揮していたわけだ。優れた医者であるとともに人格者であった佐藤は、寛斎の人格形成において第二期の人物であり、生涯にわたって影響を与えた師でもあった。

 1852(嘉永5)年、22歳になった寛斎は、佐倉順天堂で学びながら、郷里の東金で小さな医院を仮開業する。この年、養父・俊輔の姪・君塚あいと結婚する。お互いに励ましあい、苦楽の52年間を過ごすことになる、最愛の伴侶との出会いだった。
 ちなみに、寛斎とあいが北海道開拓に向かう前年の1901(明治34)年、ふたりは金婚式を迎えたが、その時の写真が現存している。多くの子や孫に囲まれたその写真には、安堵と満足感があふれた表情を浮かべる、あいの姿もある。その3年後に、あいは札幌で死去。あいは寛斎を理解し、支え、従い続けた名補佐役といっていいだろう。

 話を戻す。1852(安政3)年、寛斎は銚子で医院を開業するが、ここで生涯の恩人と崇拝する浜口梧陵(ごりょう)と出会う。当時、長崎で発生したコレラが関東にも広がり大流行していた。寛斎は佐倉順天堂で学んだ「医は仁術、困った人を助ける」との思想で、その治療に誠心誠意尽くした。寛斎の慈愛と進取の気持ちは浜口の知るところとなり、高く評価される。浜口はヤマサ醤油の7代目で、人材育成や社会慈善事業に深い関心を持ち、資金を援助していた人物だ。

 浜口は寛斎に、長崎に着任したオランダ海軍の軍医ポンペ・ファン・メーデルフォトに学ぶことを勧め、金銭的にも援助する。メーデルフォトは長崎海軍伝習所の教官であり、わが国で初めて西洋医学の学校兼病院「長崎養生所」の開設にも尽力した医師である。31歳で長崎医療所に入った寛斎は、メーデルフォトから最新の西洋式医療を学ぶとともに、貧しい人々には無料で、そして敵味方なく医療行為を施すことを学んだ。医療所在学中は妻のあいの手織りの綿服で押し通し「乞食寛斎」と呼ばれたとも言う。

 長崎遊学はわずか1年間であったが、銚子に戻ると寛斎の名声は近隣に響きわたり、患者は引きも切らなかったという。寛斎は最高度の医学を習得し、また最新の西洋医学書を持参していたため、それを学ぶべく福井藩から4人もの医者が派遣されたほどだ。

 1862(文久2)年、阿波藩(徳島県)の蜂須賀家の典医となり、藩主・蜂須賀斎裕(なりひろ)の側に付き添うようになる。病床の斎裕からは深い信頼を得るが、賢明な治療の甲斐なく、斎裕は6年後に死去する。

 時あたかも「鳥羽伏見の戦い」で戊辰戦争の火ぶたが切られた時だ。蜂須賀家を継いだのは茂韶(もちあき)で、後の東京府知事、貴族院議長にもなった聡明な人物である。蜂須賀家内は幕府につくか薩長につくかで割れていたが、茂韶は討幕の方針を取る。寛斎は蜂須賀家討伐軍付きの軍医として従軍することになり、目覚ましい活躍を見せた。薩摩藩の西郷隆盛からも感謝・激賞されたという。

 1868(慶応4)年6月、奥羽列藩同盟討伐の病院頭取に命じられる。300人近い患者がおり、医薬品や食料が不足する中、敵と味方、軍人と住民の分け隔てなく治療を尽くした。これは、箱館戦争で敵の傷病兵も治療した旧幕府軍の軍医、高松凌雲と並び称される赤十字精神に則った医療行為として称賛されている。戦闘の真っただ中で、負傷者に病院の所在を判らせる必要があるとし、病院旗も考案している。この旗は菊の紋章に奥羽出張病院と書かれており、関寛斎資料館に飾られている。

 同年10月、奥羽追討の戦が終わり、東京に凱旋する。野戦病院で藩士が受けた寛斎の手厚い手当てに感謝し、各藩から金品が届けられたが、寛斎は一切受け取らなかったという。病院頭取としての残務処理を終え、官軍総督大村益次郎に辞表を提出し、徳島に帰る。翌年、寛斎は新設の徳島病院長、さらに医学校の教授兼治療所長に任命されるが、医師の待遇改善運動で謹慎処分を受け、これらの役職を辞す。

 1870(明治3)年、徳島で町医者になり、名を寛斎から寛(ゆたか)に改める。寛は養父・俊輔、メーデルフォトの教え通り、貧しい人々には無料で診療を施し、節約・質素を重んじ、32年間の穏やかな生活をあいとともに徳島で過ごした。無料で種痘も施し、助けられた人たちは寛斎を神に近いお人だとして「関大明神」のお札を神棚に飾ったといわれる。

 その後も慈善の信念から日清戦争出征で残された家族を慰問したり、自費で往診するなど社会、そして人々に尽くす医術を寛斎は施し続けた。
 1892(明治25)年、四男の又一が札幌農学校に入学し、卒業論文に「十勝国牧場設計」を提出している。又一は北海道東部地区の開拓に思いを馳せていたのだ。1896(明治29)年、寛は又一が実習をおこなっている北海道樽川農場を訪れるが、この頃から北海道での開拓生活を思い浮かべていたのではないだろうか。
 長男の生三(しょうぞう)を医者として独立させ、次男・周助を経済界に送り出し、寛は北海道開拓の準備に取りかかった。阿波の自宅の納屋にあいと2人で住み、鍋1つ腕2つの生活で、鍬を持ち野菜を栽培し、移住に向けた準備にとりかかった。「寛斎先生は頭がおかしくなったのでは」という噂もたったそうだ。

 いよいよ準備整い、二人は1902(明治35)年4月、徳島を後にし、北海道に向かった。時に寛72歳。

「世の中を渡りくらべて今ぞ知る 阿波の鳴門は波風ぞなき」

徳島を出るときに詠んだ歌である。

 まず、札幌の山鼻に居を構え、1902(明治35)年8月、体調の思わしくない妻・あいと五男の五郎を残し、三男の余作とともに斗満(とまむ:陸別)に向かった。斗満原野には関又一・片山夫婦ら7人が寛を待っていた。

 斗満原野での想像を絶する自然との闘い、さらに開拓者や現地人の治療のために用意した薬で自分の命を絶った寛の生きざま。前回、この辺りを綴ったが、寛の自分に対する厳しさと、ほかの人々に対する優しさについて付け加えたい。

 斗満(陸別)は日本一寒い地域として知られているが、今から100年以上前、寒さに備える住居や衣服も十分でなかった時、その苦労は想像を絶するものであったろう。この厳寒の中で、72歳から82歳までの10年余りを過ごした寛は、毎日斗満川での水浴を欠かさなかったという。冬期間には、厚く張った氷を割って水をかぶったという。

 当時、鉄道建設が道東にもおよび、多くの囚人やタコ部屋労働者が使役されたが、あまりの激務と執拗な看守の咎めに耐え切れず、死を賭して逃げ出す者も少なくなかった。寛は彼らを心から世話し、住まわせ、小作人として養ったという。また、いまだ開拓途上の十勝で、医者として多くの移住民を無料で診療・治療し、重篤な病から助かった人々も多かった。

 寛はキリスト教の慈悲の心で進歩的農場経営をしていたトルストイに傾注していた。ある日、トルストイを研究していた徳富蘆花を東京の自宅に訪ねた。

「妙なおじいさんが訪ねてきた。15、16才の少年の顔をしていた」と、徳富はその印象を語っている。徳富は1910(明治43)年、斗満の寛を訪れるが、「みみずのたはこと」で、その時の様子を次のように書いている。

「寛翁の心はとく(すでに)彼の山(崇高な目的)を越えている。然しながら翁も老齢、すでに80を越した。その身はその心に沿って彼の山を越えることが出来るや否や疑問である。或いは摩西(モーゼ)の如く、はるかに迦南(カナン:モーゼが導いた約束の地)を望むことを許されて、入ることを許されずに終わるかもしれぬ。然し、翁の心はすでにキトウシ(斗満の山)を超えている。而して、翁が百歳の後、その精神は後の若者の体を仮て復活し、必ず彼の山を越え、必ず彼の無人郷を拓くであろう」

 見送るとき、徳富は振り返るが、寛は一切心配するなというかのように、振り返らない。

 私も、斎藤先生のご案内で、寛と徳富の歩いた道を通ったが、寛と仲間が拓いた1000ヘクタールの農場・牧場が広がっていた。