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北海道開拓の先覚者達(57)~荒井金助(2)~更新日:2015年10月15日

    

 箱館奉行の堀織部正(おりべのしょう)は、荒井金助の手腕を見抜き、彼に石狩改革を任せ、石狩役所長官として1857(安政4)年から1863(文久3)年まで、足かけ9年にわたって在任させた。極貧の生活を強いられていた荒井にとって、活躍の場を与えてくれた堀は神様のごとき存在で、堀の掲げる石狩改革を実現すべく懸命に開拓に取り組んだ。高倉新一郎が「今日の札幌は金助の施策によって基礎が開かれたと言っても言い過ぎではありません」と語っているが、その活躍は確かに目覚しいものであった。
 堀を中心とした樺太調査隊でロシアの南下政策の脅威を目の当たりに感じ、幕府は1853(安政元)年に箱館奉行所を設置し、樺太経営に当たることになる。地理的に見て、その要衝となるべき場所をイシカリとし、その任に当たる人物として、荒井を箱館奉行配下の調役(後にイシカイ役所長官)として登用したのだ。堀の意を受け、荒井は次々に「イシカリ改革」を実践していった。
 1858(安政5)年、イシカリに着任すると、荒井は道なき山野を木綿の着物にはかま姿で調査し、寝るときは熊の皮で暖にくるまり、焚き火の明かりで細かく日中の調査内容を筆記し改革の案を練ったという。
 イシカリ改革の第一がアイヌ民族の撫育(愛情をもって大事に育てること)である。イシカリに着任し、最初におこなったのがアイヌの人たちとの対面式(オムシャ)。タバコなどの贈り物を与え、酒を飲み交わして、お互いの理解を深めていった。これらを通して荒井は短期間にアイヌの人たちの置かれている状況を把握し、堀に書簡を送っている。この中で、イシカリ場所における場所請負支配人らによる、アイヌの人々へ非道な扱いが報告されている。「村山家(阿部屋:あぶや)は土人撫育に関し心を用いず、私利私欲に走り種々非道の儀多く、悪習一洗の様子も見えない」と伝えた。これにより、箱館奉行は、テシオ請負人栖原六右衛門とともにイシカリ場所の村山(阿部屋)伝次郎に対し、「土人遣い方非道の儀有之に付、心得方申し渡す」と、厳重な警告書を通達した。

 次に打った手が、請負商人に独占されていた魚場を出稼ぎの希望者に分け与える「直捌(じかさばき)」にしたことだった。魚場の開放で、出稼ぎ・永住人が増え、これに伴い商工人も集まり、町屋や寺社も建設されイシカリに大きな繁栄がもたらされた。従来の運上金制度を廃止し、漁獲高の1割5分を上納させたが、出稼ぎ人の増加によりこの金額は阿部屋(村山家)の運上金の2倍にも上る2500両になったという。出稼ぎ人には「アイヌ撫育」に心するよう指導も行っている。一方、漁業資源の保護にも留意し、イシカリ13場所の内、ハッサム、ナエボ、コトニ、シノロの4場所を閉鎖、サケ漁を禁止し自然保護の禁漁区とした。
 イシカリはサケの大漁場であるとともに、後背地に広大なイシカリ平野があり、農業開発の将来性が見込まれる地である。荒井は早山清太郎(次号で紹介)の調査により、シノロ村が肥沃な地であり水路も便利であるとの報告を受け、自費で住民を募集し、息子の幸太郎を頭としてこの地に移住した。農民には民家20戸を提供し、また木材を流送して提供している。この地は荒井村(後に荒井村)と呼ばれ、イシカリ地方で最初の村となる。荒井村はその後のオカダマ、コトニ、サッポロが開村されるきっかけとなったと言えよう。
移住農民は米づくりを希望し、荒井はそれを許した。しかし北辺の地で内地と異なる厳しい気候であることに配慮し、米4割、穀物・野菜6割での耕作を守らせ、凶作時の対応を図っている。今まで、野菜栽培はおこなわれていなかったが、大根・人参・なす・きゅうりなどの種子を分け与え、野菜づくりにも励ませている。

 箱館奉行は荒井が長官として勤めるイシカリ役所に、カラフト・クシュンナイ(久春内)を担当させることとなり、1858(安政5)年9月、部下の城六郎を北地に派遣した。この処置により、その前年からこの地に定住するようになったロシア人の南下を防ぐ効果がもたらされた。荒井はロシア人の丸太小屋を見てシノロの倉庫を丸太小屋にし、隙間には苔(こけ)を詰め、風雪に耐えるようにしている。今のログハウスの元なのではないだろうか。
 さらに、荒井はサッポロからゼニバコに至る「札幌越新道」と呼ばれる道路開削にも大きな貢献を果たしている。陸路によりサッポロからゼニバコに至るには、どうしても豊平川を渡し船で渡らなければならない。そこで荒井は部下の志村鉄一(しむら・てついち)と吉田茂八(よしだ・もはち)に家族ともども豊平川両岸に定住させ、渡し船の管理をさせることにした。札幌における最初の定住者として、2人は「札幌開祖志村鉄一」、「札幌開祖吉田茂八」として、今の国道36号線が通る豊平川の両岸に碑が建てられている。

 1896(明治29)年に記録された「荒井金助事跡材料」には、荒井は北海道開拓の特色ともいえる屯田制度の構想を持っていたばかりではなく、着任と同時に行動を開始している」と記載されている。そのためには学問と武芸が重要であると、部下で漢文のできる者には講義させ、武士以外の者たちにも聴講させた。また、剣道や弓術・鉄砲術に優れたものを教師とし、武芸をも励ませていた。
 荒井は日頃「イシカリ建府論」を唱えていた。「イシカリ地方は10年も過ぎれば天子様の巡行遊ばす国になる」と札幌の将来を予測していた。当時、多くの人々は聞き流していたが、果たして10年後の1876(明治9)年に明治天皇が北海道を巡行している。従来、島義勇開拓使判官により未開の荒野に突然本府建設が開始されたとの印象をもたれているが、それ以前の幕末期に、札幌近郊で着々とその基盤が築かれていたのだ。以前取り上げた大友亀太郎の開削した「大友堀(今の創成川)」や「ハッサム御手先場(おてさきば:模範農場)」の開墾、荒井による札幌越新道の開削とイシカリ改革、早山清太郎によるイシカリ地方の開墾適地の調査など、幾多の先覚者たちが近代への胎動を進行させていたのを忘れてはならない。

 前号で荒井の非業の死に触れたが「開基百年龍雲寺史」には高倉の「荒井金助の死去を語る箱館奉行の日記の一説」が添えられている。この文は箱館奉行杉浦兵庫頭の書いたもので、一部紹介する。「荒井金助は最近箱館に出張していたが、公用がすんだので、明日受持地の室蘭に帰ることになっていたが、体の調子がよくないので、出発を延ばし医療をしていた。しかしここ一両日はことに具合がよくない様子だった。ところが昨夜夜中に何処かへいなくなってしまった。夜が明けて始めて気がつき大騒ぎとなり探したが見当たらない。しかし、刀は大小とも、懐中(財布?)は残らず置いたままであり、寝巻き姿の着のみ着のままであった。まったく狂人沙汰である。病人が厳寒の中この姿で歩いて外出したのだから近所で死んだと思われる。折悪く今朝は大雪。夕方までも死骸は見つからない。止むを得ず捜索を打ち切った。まったく気の毒なことだった」と杉浦は日記に残している。
 高倉は「杉浦は荒井を狂気にしているが、ほかに自殺説があり、また暗殺説さえあるようだ」と記している。「開基百年龍雲寺史」の筆者は「気などは少しも違っておりません。病床にあって意識もうろうたるものが、寝巻き姿のままどうして五稜郭まで出かけるものですか。国を思い、その基地たる中府石狩のことを考えての行動なのです。当時、未開地の北海道を半年ほどで踏破し、地理・産物・資源などを調べ上げた男が、感情論だけで気が狂うとはとうてい考えられないのです」と、他殺説の可能性にも触れている。

 「篠路山龍雲寺」の門前にはイチョウの大木がそびえ立っている。「このイチョウは北海道自然環境等保全条例に指定されている保存樹で、樹齢も100年を超えていることは確実だ」と、根元の案内板に書かれている。秋も深まり見事に色づき、あたりを黄色一色に染めているかのようだ。荒井と早山の石碑にイチョウの葉が強風で舞い上がっている。

 今週は数年ぶりと言われる超大型台風23号が北海道を襲い、各地に大きな被害をもたらしている。台風は北海道を避けて通るものとばかり思って安心していたのがとんでもないことになっている。自然は時に、我々の予測をはるかに超えて荒々しいその姿を見せ付ける。近年は、数十年に一度といわれる異常現象が何度となく襲ってくる。油断は禁物。充分な心構えと準備をしておかなければならないと、常に思うのだが。