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北海道開拓の先覚者達(55)~ホーレス・ケプロン(2)~更新日:2015年09月15日

    

 アメリカの歴史で今も頭に残っているのが、メイフラワー号で新天地に移住した清教徒ピルグリム・ファーザーズ、ワシントン率いる独立戦争、フロンティア・スピリットで西に向った開拓者たち、インディアンとの戦い、そして南北戦争だ。これらの話は小・中学校の教科書で学んだものだが、ホーレス・ケプロンの生涯を調べていくと、これらアメリカの歴史と密接な関係があるのに驚かされる。
 まず清教徒の移住。1620年、信仰の自由を求めた102人の清教徒(ピューリタン)がメイフラワー号でアメリカ北西部・ニューイングランド(現マサチューセッツ州)のプリムスに入植した。しかし、野菜や小麦の収穫が乏しく、翌年には約半数が死亡する。入植が困難を極める中、現地のインディアンが食料や物資を援助し、狩猟やトウモロコシ栽培を教え、彼らの苦境を救った。翌年には収穫があり、神の恵みに感謝してインディアンを招いてお祝いの会を開いた。これが11月第4木曜日の感謝祭の始まりとも言われている。ケプロン家の祖先はフランスの清教徒で、メイフラワー号到着の少し後にニューイングランドへ移住しており、ピルグリム・ファーザーズとは交流が深かったという。
 次に独立戦争との関係。植民地だったアメリカ13地域が独立を求め、宗主国のイギリスと戦争を開始したのが1775年。翌年には独立宣言を発表し、1783年にパリ条約で独立が承認された。ケプロンの父はワシントンの部下として独立戦争を戦っており、また医者としても成功した人物だ。

 アメリカに移住した清教徒の子孫として、また独立戦争を戦った父を持つケプロンは、1804(文化元)年、マサチューセッツ州アットロボルで生まれる。
 成長するに従ってケプロンは才覚を現し、25歳の若さでメリーランド州織物工場の監督となり、一時は2500人もの従業員を指揮した。
また、農業にも非凡な経営手腕を発揮している。当時、アメリカの農業は無肥料で連作し、収穫が減少するとその農地を投げ捨て別の場所に移るというやり方だった。これに対し、ケプロンは土地に根気よく肥料を施し、農地の生産力を回復して栽培する手法を採用した。農場には乳牛130頭、馬30頭などが飼われていた。北海道における農業振興の基盤がこの経験からつくられたのではないだろうか。
 新世界開拓の推進力として、1830年ごろから鉄道網の整備が開始された。ケプロンの地元・メリーランド州でもボルチモアとワシントン間の鉄道工事が1834年に始まった。工事開始とともに多くの労働者が押し掛け、地域は騒々しいものとなった。その治安維持のため義勇軍が組織され、ケプロンは連隊少佐に押された。その後大佐にまで昇進している。
 1852(嘉永5)年、当時のフィルモア大統領は、ケプロンにインディアンとの関係を取り持つ任務(交渉役)を与えた。インディアンとの紛争が深刻化しており、奥地の保護区に移転させようとしたのだ。ケプロンはインディアンの酋長と会見したが彼らは徹底的に抵抗した。彼らの言い分に耳を傾けて誠意をもって相談し、次第に彼らの信用を得るようになったケプロンは、個人としても彼らに深い同情を寄せ、その幸福を心から希望していた。やがて、ケプロンのテントにはインディアンの子どもたちが遊びに来るようになり、任務についてから2年目で、反目していた部族は北部への移住を受け入れるようになった。この経験が、北海道でアイヌとの良好な関係を築いたことにつながったのだろう。
 またこのころ、アメリカでは東海岸から中西部への開拓が進められた時期でもあった。1854(安政元)年、ケプロンはシカゴ北方で牧場経営を始めた。イリノイ州の畜産品評会では1等のメダルだけで27個も獲得してその経営手腕が評価され、州農業会の副会長に選任されている。同年、マーガレット・ベーカーと再婚。日本ではペリーが箱館に来航していたころだ。
 1862(文久2)年、南北戦争が勃発。ケプロンの長男と次男はともに中尉として出征。ケプロンは58歳になっていたが、政府の要請によって大佐として軍に復帰し、騎兵隊を組織して戦線に向かう。数々の戦功を挙げたが、1864年11月に重傷を負ってしまう。なおも奮戦するケプロンに、政府は義勇軍名誉代将の階級を与えてその功を讃えた。間もなく、南軍の降伏で戦火は収まる。
 1867(慶応3)年、日本では大政奉還が起きたころ、ケプロンは63歳で合衆国農務局長に選任される。蒸気機関による耕作、牛の疾病予防のための獣医部の設置、海外から多数の植物の取り寄せなどの実績をこの間に残した。
 目の前の荒野(難問)を次々に開拓(解決)していくフロンティア・スピリットが、ケプロンの半世紀を越える人生の中で脈々と培われてきたのだろう。そして、前回記載したように、29歳の開拓使次官黒田清隆に請われ、北海道開拓という新たなフロンティアに挑戦するのだ。

 1873(明治5)年、ケプロンの進言を取り入れ、黒田は10年間計画の第一歩を踏み出した。第一の事業はケプロンの計画に沿った札幌新道の開設事業である。同年3月、黒田立ち会いのもとで、亀田村一本木から工事が着手された。さらに翌年6月、札幌・函館間の札幌新道は開通したが、これは日本で外国式に築造された最初の車道で、費用は85万円(現在の170億円相当)に及んだ。
 次にケプロンが直接指揮したのが東京官園で、第一官園にはりんご・葡萄・野菜、第二官園には西洋野菜・各種動物、第三官園では牛・馬豚が飼育された。第三官園はエドウイン・ダンが責任者で、馬にプラオをひかせて実習に励ませた。
「学問上、実地上において確実な農業を日本に広めるために多大な効果があるのは農学校設置の他に無い」と、ケプロンは開拓使狩学校を明治5年に東京官園に開設した。これはその後北海道に移設するのを目的した仮学校で、札幌農学校の前身である。校長は、外国知識が豊富で榎本軍の海軍奉行を務めた荒井郁之助が就任し、第一期生として官費・私費あわせて100人、その後アイヌの人たちも加わり、また仮学校内に女学校も設置された。いかに、ケプロンの意向が大きく反映しているかがが窺われる。
 1874(明治6)年、第二次の渡道後、「ケプロン第二報分」を黒田に提出している。その内容は「測量および地質調査は大きな成果を挙げている。札幌本道の築造は成功している。鉱山の開発は期待したほどではなかったが、今後民間に委ねるべき。木材輸出は有利で第一に実行すべきだが、その進捗はよろしくない。海産品の輸出に心がけるべし。札幌に設置した製粉機械の能率はよく皆驚いている、北海道産の穀物を粉にして食生活を改善すべき。日本人は水田適地の利用には熱心だが畑づくりの利益を知らない、米よりも麦の方が得策である」等々、多方面にわたって調査した結果を報告し、適切に建言している。現在でもその多くは受け入れられるものだ。ケプロンの卓見に驚かされる。
 
 1875(明治7)年になると、東京官園から牛・豚・綿羊が札幌間園に送られ、またコンバインを利用した機械式小麦の収穫もおこなわれるようになった。同年、最後の北海道視察で、完成されたばかりの開拓使本庁舎を見、「壮麗にしてその大きさも適当」と賞賛し、札幌を離れた。横浜に着いたのは8月27日、ケプロン70歳の誕生日の日だ。いよいよ、日本政府と結んだケプロンの3年契約の期限が迫ってきた。
 明治天皇はケプロンに「あなたはよく開拓長官を助け、事業はみな成立し日に日に進歩を見ました。これから後、北海道が益々栄えてわが国に大きな利益をもたらすに疑いありません。任期を終えて帰られるにあたり、私はあなたの功労を表彰し、かつ将来益々あなたに幸福の多からんことを望みます」とのお言葉を述べている。
 また黒田長官は以下の感謝状を贈っている。「閣下は第一に気候と土質に注意され、適切なプランを立てられました。輸送のこと、道路のことはもとより、家畜を輸入し、農作法を改良し、果樹、穀物、牧草を栽培し、優れた機械によって労力を節約されました。地質鉱物の調査、土地測量のこともみな見事な成果を収めました。北海道将来の発展と幸福は間違いなく期待できます。これは閣下の功績によるものです」と、感謝の気持ちを表している。

 1876(明治8)年5月20日、ケプロンと夫人は、見送る人々とかたい握手を交わし新橋から汽車に乗り横浜に向かう。6月23日、ケプロンを乗せた東京丸は静かに日本の岸を離れた。

 札幌の大通公園も9月に入り、秋の色がわずかながら感じられるようになってきた。ピルグリム・ファーザーズの感謝祭よりは2カ月早いが、北海道の感謝祭とも言うべき「オータムフェスト」がこの公園を会場として9月11日(金曜日)から始まった。道産食材をふんだんに使った秋の味覚が会場いっぱいに並んでいる。
その会場の西の端10丁目には黒田清隆と並んでホーレス・ケプロンの銅像が建っており、大きく発展した札幌の街と楽しげに食をほおばっている市民を暖かく見守っている。