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北海道開拓の先覚者達(54)~ホーレス・ケプロン(1)~更新日:2015年09月01日

    

「閣下に北海道開拓のご指導をお願いしたい」。切々と訴える青年次官に対し、既に老境に入った農務長官は心を動かされた。青年次官とは、29歳になったばかりの黒田清隆、米国農務長官は66歳のホーレス・ケプロン。
 当時、現職のアメリカ農務長官が北海道開拓使に転出する、というのはまったく異例なことだった。ケプロンは黒田の熱意に動かされ、同時に極東の〝処女地〟の開拓という話を聞き、パイオニア・スピリット(開拓者精神)がむくむくと頭を持ち上げたのだろう。黒田は〝日本の宝〟をついに手に入れたのだ。

 維新草創期のころ、明治天皇は北方警備の必要と天然資源の開発という2つの点で、蝦夷地の開拓に心を悩ませていた。明治政府の基本構想である「五箇条のご誓文」を発布する前に、北海道開拓の基本方針が決まっていたことからもその優先度が窺われる。ロシア南下の動きが伝えられ、一刻の猶予も許されない中、北海道開拓は明治政府にとっての最重要課題であった。
 当時の北海道は人口12万人。それも函館・江差の南部に限られており、水産業以外にみるべきものはない状況だった。
1869(明治2)年6月、北海道開拓使が設置され、長官には鍋島直正が就任。同年8月には東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)が鍋島に代わり長官の座に就いた。翌1870(明治3)年5月には、陸軍中将の黒田が樺太担当の開拓次官となり、事実上開拓使を率いることになった。
 黒田の「北辺拓殖事業」構想で、第一に挙げられたのは「西洋諸国の新知識と殖民事業に精通した専門家の協力」。具体的には「風土の適当な国より開拓に長じる者を雇い入れることだった。第二に「前途有為な青年を海外に送り留学させること」。そして第三が「学校を興して北海道開拓の任に当たりうる人材を養成すること」。この3点について、早急に取り組むべきとした。
本州と気候の違う北海道で開拓を推進するには「気候風土の似た国々から開拓技術者を雇い入れ、実施計画を立てさせるべきである」というのが黒田の主張。政府も全面的に彼の進言を採用し、その準備として欧米への出張を命じる。
1871(明治4)年1月、黒田は「北海道開拓の宝」となるべき逸材を求め、横浜を出発して米国に向かった。出発に先立ち、腹心の部下だった松本十郎(開拓使判官)へ、小刀とともに文面を送った。その書には「自分は大無事にて(元気で)世界を一周し、日本の宝になるような人物を捜し求めて帰るつもり。折角(どうぞ)ご期待下さい」と記してある。
米国に着くと、旧知の仲だった森有礼(もり・ありのり)に会い、開拓使顧問を招きたいという旨を依頼。森の案内で、時のアメリカ大統領・ユリシーズ・グラントに面会する機会を得た。
森は黒田同様に薩摩藩出身の武士で、イギリスに密航するかたちで留学。アメリカに渡っていた。外交官としては駐英公使、政治家としては初代文部大臣となり、一橋大学の前身である商法講習所も開設した人物だ。
一方グラントは、南北戦争で北軍の将軍として活躍、勝利に貢献。戦争終了後は共和党の候補として大統領選挙に出馬し、圧倒的な人気で18代米国大統領になった人物である。

黒田は森の通訳で、つぶさに日本の状況を大統領に説き、北海道開拓の指導者となる人物を派遣してもらえるよう要請した。大統領からの推薦で白羽の矢がたったのが、時の農務長官だった前出のケプロンだった。
同年4月1日、黒田は初めてケプロンに会い、北海道開拓の夢を切々と訴えた。ケプロンは「鈍才なる自分も、偉大なる神の力を借りることができれば、辺陬(へんすう:人里離れた土地)の海上に捨てられし蝦夷の孤島も、日ならずして豊穣の地に化し、かの小国といえども我が大国に対峙するのはまったく困難であるとは言えないだろう」と、青年のような理想と気力に溢れ、来道を決意した。
グラントは「あなたの辞表は受理しました。あなたの大きな功績を知っているから受け取りたくないが、あなたを招く日本の幸福のため、かつまた日米両国の親善のため、私はあなたの申し出を承諾します。神の祝福がますますあなたの上に多からんことを」とケプロンを送り出した。
1871(明治4)年6月9日(旧暦・太陽暦では8月)、ケプロンの乗った船はサンフランシスコを離れ、3週間の長旅ののち横浜に入港。日本に第1歩を印した。台風一過で晴れ上がった空には、富士山がくっきりと美しく姿を現していたという。
ケプロンは測量・建築技師のワーフィールドと地質・鉱山技師のアンチッセルを伴い、芝増上寺が宿泊所として当てがわれた。

ケプロンを迎えた明治天皇は「あなたはアメリカ合衆国では農務長官として農学を研究・指導し、その権威であると聞いております。あなたはどうか、私の期待を胸に収めて、お互いに協力し力を合わせて、速やかに開拓の成功を告げて欲しい。これは私が心からあなたに望むところであります(要約)」とのお言葉を述べられた。
これに対しケプロンは「私は謹んで、北海道開拓の事業に携わることをお受けいたします。私はこれまで学術に優れた人々の協力によって、幾多の経験を得ました。これにより農業開拓を躍進するばかりでなく、富国のもとである商工業の発展にも寄与できるものと確信しております。私は北海道開拓のため、長官に助言し、またこれを補佐します。陛下が親しく私を引見されましたことに感謝いたします。これはまた私の祖国への深い友好のお心であるものと信ずるものです(概要)」と返礼している。

その後の黒田とケプロンの行動は迅速だった。開拓使東京出張所をケプロンらが宿泊している芝増上寺に設けると、8月19日には開拓使の予算を10年間で1000万円(今の価値で2000億円)と決定。
9月には東京青山南町、同北町、麻布新笄(こうがい)に3つの官園を開設し、それぞれ東京第一官園、第二官園、第三官園とした。
アメリカから輸入した家畜、作物、果樹並びに農具を、これら官園で風土に慣らせ、飼育、手入れ、使用法を日本人に伝え、教える場にしたのだ。
ケプロンはワーフィールドとアンチッセルに、函館から札幌までの視察を指示。視察後、アンチッセルは「札幌の気候は不良で、首都として適当とはいえない」。一方、ワーフィールドは「北海道の気候は極めて良好で、札幌についても適当である」と、異なった見解が述べられた。2人の意見を熟慮した上で、ケプロンは黒田に以下のような意見書(ケプロン初期報文)を提出した。
1、 北海道の気候、土壌は農業に適し、開発可能な資源も豊富である
2、 首都として札幌は適切である
3、 機械力の利用を第一とし、諸工場を札幌に開設する
4、 果実の実る土地であり、各国から苗木を取り寄せ試植すべき
5、 東京と札幌の官園に農学校を設置し、化学試験所を併設の上、専門の教授を置く
 さらに、克明な経費概略を書き加えた。いよいよ、ケプロン主導による北海道開拓が始まったのだ。
 次回にケプロンの生涯と北海道開拓のその後について記載したい。

「お盆を過ぎると海に入るな」と、子供の頃よく言われたものだが、8月も後半に入ると、札幌も一気に涼やかな気候になってきた。
 昨日(8月30日)は北海道マラソンの開催日で、午前9時の号砲とともに、1万9000人のランナーが一斉にスタートを切った。
日本国内で唯一夏に開催されるフルマラソンだが、道外から来られた参加者も多く〝涼しい8月〟の北海道を堪能したことだろう。
 残念ながら小生は体力的に自信が持てず、申し込むことができなかった。