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北海道開拓の先覚者達(53)~佐藤信景~更新日:2015年08月15日

    

 何とも奇妙な光景だったろう。6人の山伏姿をした一行が出羽の国(秋田県羽後町)を出港したのが1697(元禄10)年2月。今から318年も前のことだ。向かった先は蝦夷地。
 箱館に着くと、さらに村山伝兵衛の船で厚岸に到着し、その後釧路の奥阿寒山の麓オセナムにその拠点を構えた。この北方の地で、誰もがやったことにない水田・畑作を試みようというのが彼らの目的である。
 一行を率いていたのは、今回の主人公・佐藤信景(のぶかげ)。
 ここで、佐藤について少し説明したい。信景は1674(延宝2)年、出羽国の代々医者の家系に生まれる。資性鋭敏で、成長するに従い、医を学ぶとともに経世家(経世済民の思想家で世直しを訴える)としてもその勉学を積み重ねていった。
 当時、北奥羽地方では飢饉が頻発し、民は飢えに苦しんでいた。「医のみにて民は救えぬ」と、諸国を遊歴し、経済学・農学・鍛冶学を修得、蝦夷地開拓を訴えるようになった。
 最上徳内が虻田付近でアイヌの人たちに馬鈴薯耕作を教えたのは1798(寛政10)年。それより100年も前に、厳しい気候の東蝦夷地でしかも米も生産したというから、今日の農業技術からみても驚くべき快挙である。
 この東蝦夷地での開墾については、信景が著し、その孫・信淵(のぶひろ)が筆を加え、1724(享保9)年に世へ出た「土性弁・巻4」という書物に記されている。

「土性弁」に記載されている内容は概ね下記のようなものである。
「佐藤信景の社中に伝長坊という山伏がいた。彼はある年、蝦夷地の開拓を志し、厚岸の縁者である請負人を頼り蝦夷地に赴く。種子を背負い箱に入れ、農具を持ち、阿寒山の麓「オセナム」の地で農作業を始めた。耕作法は、初年度は日当たりの良い地を選び、その地に野生する草木を伐採し、14~15日の間天日で乾かした上、火を放って焼き、その灰を土と共に耕し、種子を蒔く。」
 この耕作法により、伝長坊は、蕎麦(そば)・麦を2斗23升、稗(ひえ)1斗余り、米は15坪の農地で次年度の種子となる数合の籾(もみ)を初年度に収穫した。ただ、豆類や野菜の成績は良くなかったそうだ。
 伝長坊は翌年より肥料の改良に取り組み、厚岸産の牡蠣の殻を砕き、魚類の粕とともに肥料として加え、初年度を上回る収穫を得た。彼は、故郷である出羽国に帰国すると、その詳細を師匠の佐藤に報告した。
 佐藤はこの話を聞き、伝長坊を案内役として親族・門人を加え、6人で山伏姿になり、冒頭に記載したように蝦夷地に向かったのだ。

「土性弁」では、「現地に留まること3年、種々の工夫を重ね、初年度1斗9升、2年目に2斗6升、3年目に3斗1升の籾(もみ)を収穫」と記録されている。
 この実績をもって蝦夷地を開拓せんとして「開国新書」を著した上、松前藩に赴いたのが1701(元禄14)年8月。松前領主に収穫物を献上したところ松前藩は喜び彼らを大いに歓待した。
 しかし、江戸より重役が帰ると事態は一転し、翌月には国禁を犯したとして入牢される。その後、松前領地に再度入ることを禁じた上、彼等6人は蝦夷地から追放される。
「土性弁」に記載されたこの快挙で、佐藤は蝦夷地開拓論の先駆者であり、稀に見る実行者である、と称されるようになった。
 北海道農政部が発表している「北海道農業の歴史」にも、佐藤が東蝦夷地に入り、水田・畑作を1698(元禄11)年に試みたと記録している。

 しかし、北海道帝国大学教授・農学博士であった高倉新一郎は、1947(昭和22)年に発行された「北海道拓殖史」で、佐藤の快挙といわれている東蝦夷地での米作について疑問を呈している。
 第一の疑問は、佐藤のこの事跡が「土性弁」に書かれているだけで、豊富な書籍を著している本人や、孫の信淵のほかの文献では触れられていないこと。
 第二の疑問は、厚岸行きの商船には松前藩の藩士も乗り込んでおり、山伏姿の怪しげな6人が乗船できたとは考えられないこと。
 第三の疑問は、当時は阿寒地方で木材伐採に従事する作業員が、10月以降だと100人中60~70人が寒さで病気となり、亡くなることも多かったといわれる時代であること。特段準備もしていない6人が3年間も無事に冬を過ごせたことは考え難い。
 今日の技術を持ってしても米作には不適な厚岸で「土性弁」に書かれているような初歩的な方法で、籾の収穫があったことも疑わざるを得ない。
 蝦夷地での米作は元禄時代におこなわれた記録があるが、いずれも北海道で最も温暖な渡島地方であり、短期間で中止されている。
 開拓したオセナムの地名も存在が不明であり、アイヌ語でも解釈できない等々、多くの疑問がある。

 佐藤信景命は開拓神社の名簿で3番目(没年の古い順番)に記載され祀られている神様であり、むやみにそのご功績に私心を加えるのは僭越であり、罰が当たるのではないかと心配になるが、身の程をわきまえずに少々書き加えたい。

 戦前の小学校教科書に「五代の苦心」という物語が掲載されていたそうだ。一人・一代ではなく、経世済民(経済学・農業学・鍛冶学)を実現するには、父祖の志しを子孫に伝え、五代にしてそれを実現するという美談である。
その悲願を達成し、「五代の苦心」物語を世に広めたのが佐藤の孫・信淵といわれている。秋田県立羽後高等学校の校歌にも「豊かに実る信淵の大地はいまぞ黄金の海」と「五代の苦心」が歌われている。
 信淵は江戸後期の経済学者で、その著述は300部8000巻に及ぶとされている。その面では大変な学者であり、自説を祖先から受け継いだ「実学」であり「真理」であると提唱していた。
 信淵の農業の特徴は、西洋科学を取り入れるとともに「植物の生育は天地を創った神の意思によるもの」という国学的発想を取り入れている。そして、この説に至ったのは「佐藤家五代の実学」によるものと主張している。
 佐藤家五代とは、信淵、父の信季、祖父の信景、曽祖父の信栄、曽曽祖父の信利。信淵は、祖父である信景の蝦夷地開拓の偉業を世間に知らしめ「五代の実学」の証にしようとしたのではないだろうか。そのために「土性弁」を書き換え(加え)、誇張したのではないだろうかという説もある。
 信淵は封建制度の時代に、来るべき統一国家としての日本を描いており、その国家像は明治維新を予見し、時代を先取りした思想家として評価されている。
 一方において、「日本は天地で最初に生まれた国であり、世界万国の根本である。全世界悉く日本国の郡県とし、万国の君長皆臣僕となすべし」と主張しており、大東亜共栄圏思想の父と呼ばれることもあった。
 しかし、佐藤家五代の伝統に支えられて、多くの人々を北地開拓に希望をふるい立たせたことは見逃せない。
 信景は、松前藩から釈放された後、59才で秋田の銅鉱山の調査に行くが、坑内で爆発事故が起こり、火炎に巻き込まれ亡くなる。

 晩成社の依田勉三が帯広に入植し、すべてを失った後の1920(大正9)年(入植の37年後)、途別の水田にようやく穂が実った。その途別水田跡に建てられた石碑には、佐藤信景の名前を読み取ることができる。依田勉三も、佐藤信景の偉業に魅かれて蝦夷地に渡ったのだろう。
 
 本ブログが掲載されるのは8月15日。開拓神社祭礼の日(北海道が生まれた日)だ。今年は大神輿の出番はないが、子供神輿が北海道神宮界隈を練り歩き、子供たちの元気な声が辺りに響き渡ることだろう。