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北海道開拓の先覚者達(52)~村橋久成(4)~更新日:2015年08月01日

    

 村橋久成の3度目の渡道は1876(明治9)年4月。麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、製糸所の3工場を札幌に建設するのがその目的だった。村橋はこの時34歳。人生で最も充実した時期であった。

 話をその前年に戻す。1875(明治8)年は村橋にとって極めて心躍る多忙な年であった。同年8月、北海道物産縦覧所(物産館)が設けられ、所轄する農業課の最高責任者であった村橋が事務管理を兼務することとなった。
その直後、北海道で成育されるホップや大麦を利用して麦酒醸造所を建設することが、明治政府上局の議案として浮上してきた。
 きっかけとなったのは、開拓顧問兼お雇い教師のホーレス・ケプロンによる「北海道は寒冷地で稲作に適していないので麦(小麦、大麦)を栽培すべき」との提言。ケプロンと同じ外人顧問のトーマス・アンチセルが北海道南部に野生のホップを発見、北海道での麦酒製造について建言していたことも理由だ。
ケプロンが麦作を奨励し、アンチセルが北海道におけるホップ栽培を見出した――これが開拓使麦酒醸造所が設立される遠因ともなったわけだ。

物産縦覧所の設置と同時期、開拓使は北海道の産業振興を促進するため、麦酒醸造所建設を計画した。村橋は詳細な計画の立案を命じられる。
村橋が最初に手がけたのが醸造技術責任者の任命だ。当時、ドイツのベルリンにあった「ティフォーリー麦酒工場」で醸造技術を修得した中川清兵衛がその目に止まった。
同年8月30日、村橋は中川を自宅に招き、承諾を取りつけて採用した。契約書には、契約期間中の辞職は許されない、職務を疎かにした場合は雇いを解約し、今まで受け取っていた給料を全額返済するという厳しい内容だった。
中川の職名は「麦酒醸造人」。月給は50円(今の100万円)で、9等出仕の官吏と同額という破格の扱いだった。
 中川と村橋が巡り会ったことは、今考えれば絶妙のタイミングであった。その後の麦酒醸造を成功させた要因とも言えるだろう。
 中川は早速〝東京〟における麦酒醸造所の絵図面を作成。見積もりもでき上がり、ドイツやアメリカへ工場の設備資材や大麦、ホップの注文書を作成。次々と発注していった。
村橋は以前から、東京に醸造所を造ることは無駄だと考えていた。農業や産業の振興が目的なら「最初から北海道に建設すべきで、それが出費を抑えることになる」という考えだったからだ。

 外国へ注文した品が横浜港に到着したのは同年12月28日のこと。それを受け取りに行く中川を見送った後、村橋は非常手段として、黒田清隆長官を含む上局者に稟議書を出した。
それには「麦酒工場は試験のため東京に建設することになっているが、北海道には木材等も充分にあり、気候も相当であり、最初から実地(北海道)に建設することで2重の支出を省くことが可能である。ついては北海道にて最初から建設することをご検討戴きたい。建設場所については水利運便、気候等の適地を選択する必要があり、緊要にてご決済戴きたい」と書かれていた。さらに予算として麦酒製造所建設に4980円48銭2厘(約1億円)、機器の購入に1813円63銭5厘(約3600万円)の決済を要請している。
 村橋はこの稟議書のタイミングを見計らっていたのだろう。それが醸造用の機器が届いたその時だったということだ。当時(今も変わらずだが)、上局の決定を覆すことは自身の地位を危うくするもの。まさしく命がけの稟議書であった。簡潔で明瞭なロジックで記載された文面、絶妙のタイミング、そして村橋の巧みな根回し。何よりも、英国留学中に衝撃を受けた西洋式大農場で、大麦やホップを北海道で栽培したいという村橋の強い思いが働いたのだろう。なお、この稟議書は北海道大学附属図書館に現物が保存されている。

 村橋には、麦酒醸造所の北海道での建設に加え、葡萄酒醸造所及び製糸工場の開設という任務が与えられた。葡萄酒工場は、七重・東京試験所生産の葡萄を利用するためであり、製糸工場は養蚕振興が目的だった。村橋の力量が上局に認められた結果であった。

 翌1876年(明治9)年4月、札幌在勤の辞令が出る。当時、村橋は開拓使勧業課の最高責任者であったが、3工場建設は村橋が直接現地で指揮することになった。
 同年5月30日、村橋は職人らとともに玄武丸で小樽に到着。翌日、札幌での当面の宿舎に決めた元女学校校舎に向った。
ここは、以前36人の女学生が在校する全寮制の学校であったが、開校後間もなく閉鎖されている。黒田長官が酒宴に女学生を招き酌をさせ、それが松本大判官の知るところとなり、大判官は激怒し廃校にしたといわれている。
 さて、3工場は札幌の創成川の東、現在「サッポロファクトリー」がある場所に建設することになった。村橋は、札幌に向け出発する前から工場予定地に思いを巡らしていたが「フシコサッポロ」の水源がある雁木通りをその適地として描いていたのだ。
 早速、三所建設の事務所を雁木通り近くに設け入札を募ったが、麦酒醸造所建設を2773円(約5500万円)で落札したのは水原(すいばら)寅蔵である。水原は、以前このブログでも取り上げたが、中島公園からススキノにかけ大林檎園を作り「水原りんご」としての名声を高めた男だ。
村橋は水原について「実直である反面、新しいものを積極的に取り入れるという冒険心を持った不思議な男だ」と評している。
 
 村橋指揮の下、醸造設備を中川が、工場建設を水原がそれぞれ陣頭指揮し、多くの作業員も懸命に努力した。同年8月30日には葡萄酒工場が、次いで9月8日に麦酒醸造所が落成した。
 この間、三条実美(さねとみ)、伊藤博文、山形有朋の明治元勲らが3工場を視察している。
 3工場の開業式は9月23日だった。多数の参加者が列席し、製糸場で挙行されたという。1936(昭和11)年発行の「サッポロビール沿革誌」には、開業式の写真が載っている。そこには40もの麦酒樽が並べられ、1樽に1文字ずつ大きな字で「麦とホップを製すればビイルという酒になる」と白いペンキで書かれている。
村橋が命じて書かせたのだろうが、写真好きの黒田清隆はこれを贈られ、ご満悦だったとのことである。
 第1回の醸造分は大半が東京に送られ、アピールの意味もあって宮内庁をはじめ政府高官や軍の幹部に寄贈された。
 サッポロビール博物館には、右大臣の岩倉具視、参議の大隈重信と大木喬任の3者連名で、政府高官各位に宛てた開拓使麦酒送り状が展示されている。博物館による説明文には「コルク栓の取り付けが良くなかったため、献上した麦酒全部が吹きだしてしまい、1滴も残っていないという失敗もあった。」と書かれている。
一説によると、一番肝心な内務卿の大久保利通に送られた12本の麦酒瓶には1滴も残っておらず、黒田が赤っ恥をかいたといわれる。
 
 村橋が腐心したのは、生産された麦酒や葡萄酒をどのようにして消費地である東京・横浜に運送するかであった。製氷技術が完備されていない当時のこと、麦酒の保存と輸送は苦労が多かった。
梱包の中に小樽・色内川の氷を敷き詰めたり、函館・五稜郭の濠から切り出した氷で大もうけした中川嘉兵衛所有の氷蔵を利用したり、小樽手観や埠頭の岩窟に貯蔵したりと、苦心のほどが見える記録も存在する。
 麦酒はドイツ流の製造法によって醸造されていた。開拓使はこれを「札幌冷製麦酒(目耳曼:グルマン麦酒)」として翌1877(明治10)年6月ごろから一般販売を始めた。
冷製麦酒のラベルには、開拓使のシンボルである「五稜星(北極星)」が採用された。初年度は100石(2万5000本)の出荷であったが、評判が高くなるにつれ、生産高は急激に伸びていった。第1回内国博覧会に出品されるまでになったのだ。

 だが村橋は、目的が達成されたと考えるようになってから、長い間にわたって張り詰めていた緊張感が急激に衰えていくのを感じていたという。
 1881(明治14)年、開拓使の廃止まで残り1年となったころ。村橋が必死に開拓・建造した七重開墾場、麦酒工場、葡萄工場、物産館など、開拓使官有物・施設は民間へと払い下げられた。
 同年5月4日、上野公園で第2回博覧会が開催され、冷製麦酒が出品されている最中、村橋は突如辞表を提出する。
 この日は、開拓使官有物払い下げを自由民権派が厳しく攻撃し、黒田清隆や大熊重信が辞任に追いやられた日でもある。
 その後、村橋は11年後の1892(明治25)年10月12日に神戸郊外の路傍で行き倒れの姿で発見されるまで、洋として知れなかった。(本ブログ6月15日号)

 田中和夫著の小説「残響」では、村橋は戊辰戦争・箱館戦争に従軍中、妻・志津が幼い子を亡くしたことで実家に戻った後、村橋は一人身で生涯を過ごしたことになっている。歴史の記述によると、村橋の葬儀は黒田清隆が執りおこない、遺体を神戸から東京に運んだのは次男の圭二と記されている。
わずかばかり、心の安らぎを感じた。
 
 夏休みに入り、北海道神宮朝のラジオ体操には子どもたちが200人も参加するようになった。参加の記念品をもらった時のはにかむような彼らの笑顔が、しばらくの間、心を和ませてくれるだろう。