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北海道開拓の先覚者達(46)~大友亀太郎~更新日:2015年04月30日

    

 ゴールデンウィークを前に、一気に気温が上昇している。例年より1週間から10日早く桜が開花し、待ちに待った北海道の春が到来した。毎日通っているラジオ体操の会場・北海道神宮でも、パワースポットと呼ばれている島義勇判官銅像横の枝垂れ桜も満開。一層のご利益をいただけそうな気持ちになる。
 その島は、円山コタンベツの丘(円山の中腹と思われる)から眼下に広がる原野を眺めて「河水遠くに流れて……」と詠み、札幌の地が世界第一の都になるだろうとの思いを高ぶらせた。ここでの河水は豊平川を指しているのだろう。豊平川が流れる現在の南5条西2丁目(鴨々川のあたり)に取水口を設け、一直線に北に向かって流れているのが現在の創成川だ。
創成川という名は1874(明治7)年につけられたが、それまでは「大友堀」という名前の水路だった。島はこの水路を東西の基準線として、札幌の都づくりに取り掛かった。
 島が北海道の本府である札幌の構築を始めたのが1869(明治2)年。つまり水路はそれ以前に完成していたことになる。今回の主人公はその名が水路に冠されていた、大友亀太郎だ。

 札幌市東区北13条東16丁目に、市の有形文化財および史跡「札幌村郷土記念館」があるということで早速訪れた。会館は大友亀太郎の役宅(事務所と住居を兼ねた建物)のあった場所に再建されたもの。
記念館の正面には「大友亀太郎着任150年記念」の表示が掲げられている。そこには「1866(慶応2)年、西蝦夷地の中心である石狩地方の開拓を命じられ石狩の船着場に到着しました。当時の札幌はアイヌ語で「サホロベツ」(大きな乾いた広い土地という意味)と言われていました。(中略)札幌開拓の先駆的な役割を果たした大友亀太郎の札幌村着任から2016(平成28)年で150年になります。」と記されている。
大友は松浦武四郎が北海道と命名した1869(明治2)年の2年前から「札幌村」の開拓に取り組んでいたことになる。

 記念館の前庭には大友亀太郎の銅像が置かれている。腰に大刀を差し、望遠鏡を右手に持った凛々しい姿を見ることができる。よく見ると、右の目がわずか窪んでいる。大友は隻眼(せきがん)で、眼を患っていたのだ。
銅像前の碑文には「(前文略)大友亀太郎は1858(安政5)年に渡道し、1866年には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった。1869年これを開拓使に引き継ぎ、翌3年札幌を去った。亀太郎が掘った大友掘は、今の創成川の基となって街の中心部を流れ続けている」と刻まれている。
なお、同じ銅像と碑文は、創成川通りの南1条付近にも建立されているが、どちらが複製なのかはまったく見分けがつかない。

ここからは、大友について「札幌百年の人びと」(1968年・札幌市史編纂委員会発行)と「新札幌市史」(1989年・札幌市教育委員会編集)を参考に、概要を記す。何れも高倉新一郎元北海道大学教授が編纂委員長を務めている。

大友は1834(天保5)年、相模国(神奈川県)下足柄郡西大友村(現・小田原市)の農家に生まれる。当時は天保の大飢饉で、人々は貧しい生活を余儀なくされていたが、彼は勉学を好み、特にそろばんを得意としていたという。
「自分は銭を貯めるより善行を積みたい」という思いで、1855(安政2)年に二宮金次郎(尊徳)の門に入る。二宮は薪を背負い書物を読んでいる姿が銅像になり、私の小学校の校庭にも建っていたのを覚えている。当時はほとんどの小中学校に建てられており、勉学と勤労のお手本とされていた。
二宮は天保の飢饉で疲弊した農村を救済し、復興・開発事業を行っており、大友が入門した当時は徳川家の日光領内の改良に尽力していた。その門下に加わること自体が大きな名誉。大友は二宮の〝眼鏡〟に叶い、開墾人夫として門下生となる。日中は農耕、土木に勤しみ、夜は書を読む。時には二宮の教えを直接受けることもあった。
二宮の高弟・富田久助も彼に目をかけ、その育成に骨を折ってくれた。富田の指導もあり、彼は二宮門下で「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を修得していった。

折しも、箱館奉行の堀織部正(ほりおりべのしょう)は、蝦夷地開拓のため尊徳の出張による助力を願っていたが、二宮は老齢で病床にあった。堀の願いは叶わないまま、1856(安政3)年に二宮はこの世を去る。
1858(安政5)年、大友は二宮を招聘しようとした箱館奉行の要請を引き継ぎ、同僚とともに蝦夷地開拓のため渡島国に向う。この時大友は25歳。言い渡された役職は「箱館在木古内村開墾場取扱」で、故郷の村である大友の姓を名乗る。
大友は早速、上磯郡、亀田郡(現在の木古内町と七飯町)の開墾に取り組み、木古内移民24戸30町歩、大野移民48戸100町歩の開墾を成し遂げた。この間、箱館在有川の回船問屋の娘・サダを嫁に迎えている
大友の能力を高く評価した箱館奉行は、1866年にイシカリを中心とした蝦夷地開拓の方針を打ち出すと、その差配を大友亀太郎に命じた。合わせて「蝦夷地開拓掛」の役職を与えている。この時、大友33歳。
この年の4月、大友は大野を出立しイシカリ役所からハッサムに行き、御手作場(おてさきば・模範農園のこと)の選定にかかる。案内したのは早山清太郎(札幌三翁の1人で今後当ブログにて紹介予定)。当時のハッサムやシノロでは、山岡精次郎や荒井金作などの先駆的開拓者が開墾に従事していた。
大友は調査の結果、フシコサッポロ川の上流「サッホロ」を開墾することを決めた。「石狩国原野ヲ実検スルニ、最良ノ原野ハ札幌ナリ。故ニ此地に着手シ、其要ハ用水路及ビ道路等ノ弁理ヲ量リ、測量シテ之ヲ定メ……」と大友は記録している。決めた場所は元村(今の元町)である。

大友は、開拓の基本は「道路の開削」「用排水路の掘削」「橋梁の架設」「家屋の建設」であるとして、早速工事に着手した。
用排水路掘削はこの当時「100万両の工事」とも言われる高額・難工事だった。大友は南5条西2丁目(石狩陸橋)の取水口から北東に取り、札幌村役場(現在の札幌村記念館で大友の役宅のあった場所)の裏側を通して伏籠川(ふしこがわ)に注がせるルートを策定。津軽出身の黒滝大太郎を頭に、総勢450人が突貫工事で水路を開削した。この水路こそが「大友堀」だ。その規模は前長4キロメートル、上部の幅6尺(1.8メートル)、川底の幅と深さは5尺(1.5メートル)であった。
元村への農民移住は1866年に9戸35人、翌年に10戸47人、そのまた翌年に4戸15人と徐々に増えていった。大友は、風土に慣れない移住農民に対し、居住、家財、農具、飯米など充分な扶助を与え、彼らが自立・自営できるよう細々とした配慮を施している。二宮の仕法に準拠していたといえるだろう。

さて、その最中に徳川慶喜が大政奉還をおこない、明治新政府が誕生した。箱館裁判所(後に箱館府)には清水谷公孝(当ブログ2014年9月1日掲載)が着任。大友は「箱館裁判所付属」に任命される。その後、榎本武揚(当ブログ2013年7月15日掲載)は蝦夷共和国を立ち上げるがすぐ降伏し、再び箱館府の管轄となる。
さらに箱館府は大友に「兵部省(ひょうぶしょう)出張所石狩国開拓掛」の官職を与える。月給は10円。この任を受け、大友はナエボの開拓と石狩トウベツ開墾予定地の調査に当たる。
またこの時期には開拓使が発令され、島が北海道本府を開設すべく札幌に着任する。冒頭触れたように、島は円山コタンベツの丘から札幌の原野を眺望し、東西の基点となる大友堀を見て、これを見事に掘削した大友に強く魅かれ、本府建設に協力してもらいたいとの思いを強める。
大友はすでに目を患っていたが、日夜仕事に奔走。病は悪化していた。札幌入りした島はこれに同情し、自分の守護神として大事にしていた妙見菩薩の小像を大友に贈る。大友はこれをお堂に祀り村人の信仰の対象としたが、この像は現在、妙見山本龍寺にあり、引き続き地元の方々が大切にしている。
島はしきりに開拓使に加わるよう勧めるが、大友は自分が兵部省に雇われていることから島の要請に応えることはできなかった。当時、佐賀を中心とした開拓使と長州閥の兵部省は反目し合っており、大友はこのことを気遣ったのであろう。
1871(明治3)年、大友は開墾した札幌村と苗穂村を開拓使に引き渡し、妻の実家・渡島有川村に一時滞在した後、13年間に及ぶ蝦夷地・北海道での厳しい職務と生活に終止符を打ち、函館を発った。
大友はその後、若森県(茨城県の一部)、島根県、山梨県の官吏を歴任。1875(明治7)年には故郷の大友(神奈川県小田原市)に戻り、副戸長、戸長に就任した。1882(明治14)年には神奈川県議会議員となり4期務めた。1897(明治30)年、64歳で大往生。墓所は小田原市西大友盛泰寺。

大友が最初に開拓した地は札幌元村として開拓が進められ、自然災害も村民の離村も少なく発展していった。
前回のブログで、「札幌本府建造で食料の確保が緊要である」として島が東北各県に農民移住を募集したことに触れた。1871(明治3)年に、酒田県(山県)から36戸が庚午一の村に、同じく酒田県から30戸が庚午二の村に、そして柏崎県(新潟)から22戸が札幌新村に移住している。大友が北海道の地を離れた翌年、札幌元村は札幌新村と合併し札幌村となり、庚午一の村は苗穂村、庚午二の村は丘珠村になったが、後にこれら三村が合併され札幌村となり、現在の札幌市東区に引き継がれている。