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北海道開拓の先覚者達(44)~三木勉~更新日:2015年04月01日

    

「明治4年、旧仙台藩・片倉小十郎邦憲(白石藩主)が北海道開拓を命じられ、その家中(家臣)150戸600余人が郷里を後に開拓の途につきました。その内50戸241人が翌5年に入植したのが、この地(上手稲)の草分けであり、手稲発祥の地といわれています」―― 地下鉄東西線「宮の沢」駅近くにある「手稲記念館」では、手稲の歴史を紹介している。冒頭の碑文は、敷地内にある開拓記念碑に記されているもの。記念碑は1910(明治44)年11月に、上手稲神社(西区西町北20丁目)で建立されたものだが、1967(昭和42)年の手稲100年に合わせて建てられた同記念館に移設されていた。

 前回・前々回では白石村を開拓した佐藤孝郷を取り上げた。その中で、発寒を開拓地とした241人がなぜ佐藤孝郷らと一緒に白石村開拓へ加わらなかったかは、1つの謎として残っていた。私はこれを疑問に思って調べてみると、意外な事実が浮かび上がってきた。「咸臨丸(かんりんまる)」の座礁と関わっていたのだ。
 600人の移住希望者は、第1陣の398人、第2陣の206人に分かれて北海道へ向かった。第1陣に用意された船はその咸臨丸。1860年、勝海舟が船長となり徳川幕府の遣米使節を乗せ、初めて日本人が太平洋を渡った船として、あまりにも有名だ。
 咸臨丸の引率者は開拓主事を命じられた22歳の佐藤孝郷と、34歳の家老添役、三木勉。佐藤よりひと回り上の三木は、白石出発時から若い佐藤の采配に少なからぬ不信と不安を感じていた。それが噴出したのが咸臨丸の座礁。乗員398人の運命が左右される大事故の際だといわれている。
 咸臨丸は函館を出て小樽へ向かったが、その途中で暴風雨に見舞われ、木古内沖合で座礁してしまう(アメリカ人船長の操縦ミスで、海は荒れていなかったとの説もある)。船から移住民を避難させる順番について、佐藤は「乗船した順番」三木は「老人・子供から」と主張。両者は刀を抜かんばかりの険悪な事態となった。結局、三木は急いで救助を求めるのが先と海中に飛び込み、陸地を目指して船を離れた。陸地は大騒ぎとなり、地元の名主が舟を出して船員を含む401人全員を救出。移住民は集落の家々に運ばれて介抱される。この事故が、移住民を分裂させ、両者の間に埋めることのできない溝を生じさせるきっかけであった。

 佐藤、三木の一行は陸路徒歩で函館にいったん戻り「庚午丸(こうごまる)」に全員乗船。小樽で下船した後、銭函を経由して石狩の地に至った。この当時はニシン漁が盛んで多くの番屋や納屋があったが、春の漁期まで空き家になっていた。移住民たちはここでしばらくの間、雨・露、そして冬の寒さをしのぐことができたという。
三木は佐藤とともに開拓使本庁を訪れ、当時主任判官として開拓使を仕切っていた岩村通俊に会う。岩村の計らいで、移民扶助規則に従い全員「開拓使貫属」の扱いを許される。士族の資格のままで開拓に従事できるのだ。
北方の地で開拓に携わるとともに、侍として国土防衛の役に立つことは、賊軍の汚名をそそぐことにもなる。戊辰戦争に敗れてすべてを没収され、北の地に活路を求めてやってきた旧白石藩士たち。彼らにとって、その喜びはひとしおだったことだろう。
三木らは上手稲(現西区宮の沢)に移住することを決めた。時に1871(明治4)年3月17日、この年をもって手稲町の開基と定められた。
佐藤孝郷は67人の屈強な男女を募り、わずか20日間で最月寒(もちきさっぷ)に47戸の小屋がけをしてその年の内に移住した。一方、三木ら241人は石狩の納屋や空き家などで待機し、正月を石狩で過ごした後、1872(明治5)年2月半ばに47戸が上手稲へ入植した。この年三木は34歳、働き盛りである。

三木は情熱をもって村の開墾にあたる一方、学識豊かで和漢に通じていることから、子弟の教育が重要であることを強く感じていた。「開拓の一歩は移住してきた人達の子弟教育にある」――と。
上手稲に入植して間もない同年5月、雪解けを待って三木は上手稲34番地のかやぶきの自宅を開放して塾を開設した。桜の木の皮を剥ぎ取り、そこに「時習館」と命名、塾の門柱とした。
最初は7人の子弟が学び、3年後には30人まで増えた。当時の先駆的学校として評判になる。「時習館」の名は中国の古語「学んで時にこれを習う」から採っており、現・手稲東小学校に引き継がれている。
 ある日、たまたま開拓使判官の松本十郎が移住者の様子を視察に来て「時習館」という珍しい文字を目に止めて、授業を見学した。そして子弟を教育する三木の熱心さを目の当たりにして感服。一本の掛け軸を贈呈し、村人は感動したという。掛け軸は今も手稲記念館に所蔵されている。

 当時の札幌には塾が3校あった。前回紹介した資生館(現・資生館小学校)と善俗館(現・白石小学校)、そしてこの時習館である。「時習館」は札幌地方の私設の学校形態では最古とされる。
 時習館の碑が建てられていた場所は西区西町南19丁目の「中の川公園」。車でその場所を訪れたが、住宅が立ち並ぶばかりでそれらしき碑は見当たらない。
雪解けが始まっているのに水も流れていない小さな川があり、そばには中の川公園という看板があった。この辺りに長く住んでいると思われる方にお聞きしたが「聞いたこともない」という返事。
なおも諦めず、まだ30センチほど積もっている雪を踏みしめて公園の中を進んでいくと、奥にその碑を見つけた。文字は消えかけていたが、何とか次のような碑文を読むことが出来た。
 「明治5年5月、未開のこの地に塾を創る。“学ンデ時ニコレヲ習ウ”の古事を引用して「時習館」と命名した。この理想こそ、その師たりし三木勉氏の教育精神であって、氏の学徳の教育の中に力強く具現されたものである。ここに手稲教育の発端を追慕し、教育の先見を讃えて、この由来を永久に伝えんとするものである」――。
この碑は1967(昭和42)年、手稲町と札幌市の合併を前に建立されたものだが、何と寂しいところに建てられたものか。はたしてここを訪れ、由来を学ぶ人はいるのだろうか。
 1878(明治11)年、開拓史は官費100円を支出し、村民の寄付金77円を合わせて校舎を建て「公立上手稲教習所」を開いた。この学校は後に上手稲小学校となり、現在は前出の手稲東小となっている。三木が「時習館」を開いてから100年後の1972(昭和47)年、記念碑が同学校前に建てられている。
 
三木は教育に専念するかたわら、帯刀のままで畑作業にも打ち込み、士農一致の精神を忘れることはなかった。1886(明治19)年から翌年まで、第3代豊平村戸長に就任している。ちなみに手稲村の初代戸長は名目上、旧藩主・片倉景範となっており、2代目には三木の弟・菅野格が任命されている。
 三木はその後、開拓使の戸籍係、札幌神社(今の北海道神宮)の禰宜(ねぎ:神官)、豊平村戸長を歴任。千歳村戸長も5年間勤めている。豊平戸長の時は、地名のない場所に学田山や青葉山など郷里の白石や仙台にちなんだ名前をつけており、千歳戸長の時にも小高い丘に仙台ゆかりの青葉山の名をつけ、そこに千歳神社を建立している。
郷里への思いが常に心の底にあったのだろうし、また仙台と自然が似ている手稲をこよなく愛していたのだろう。
 晩年は上京し、1895(明治28)年1月に東京で死去。享年57歳だった。宮城県白石市清林寺に墓所がある。
辞世の句は、「遠くゆくいかだは波に沈むとも 名を日の本に影やとどめん」。

 4年に1度の地方選が始まり、街は騒がしくなってきた。選挙カーが通る道の脇にはフキノトウが顔を出し、クロッカスや福寿草の花が咲き出している。
桜前線も関東地方まで伸び、北の地の春も間もなくだ。学校も企業も新たな年度を迎える4月1日。気持ちを新たにして取り組まねば。