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北海道開拓の先覚者達(40)~吾妻謙(下)~更新日:2015年02月01日

    

 北海道神宮のラジオ体操から帰り、食事をしながらNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」を観るのがすっかり日課になってしまった。「マッサン」の舞台は余市に移っており、そこで異彩を放っているのが熊寅さん。彼の両親は戊辰戦争で薩長軍に破れて会津を追い出され、苦難の末に余市へ移住したという設定だ。会津からいったん青森県の戸南(となみ)に移封され、そこから生活に困窮した藩士とその家族が余市に移住してきた。それが1872(明治4)年。この年、戊辰戦争に敗れた伊達岩出山藩士も苦難の末に聚富(シップ)へ移住している。

 前回は、本庄陸男(むつお)著「石狩川」を参考にしながら、岩出山藩の士族移住と家老・吾妻謙(あがつまけん)の「さむらい」としての生き方をみてきた。ここで、吾妻の生涯について調べていきたい。あの侍魂はどのように醸成されたのだろうか。
 吾妻は1844(弘化元)年、岩出山藩の家臣の子として生まれる。この年は「北海道」の名付け親、松浦武四郎が始めて蝦夷地に入り、松前から東蝦夷地を調査する前年にあたる。父の早世によって9歳で吾妻家の家督を継ぎ、奥小姓となって伊達邦直に仕える。13歳で藩校に学び、抜群の成績を収めた。
 藩校では、伊達亘理(わたり)藩の家老として藩主・伊達邦成を助け、有珠郡への移住を率いた田村顕と知り合う。田村は吾妻より12歳年上で、早くから北の地に強い関心を持っていた。おそらく吾妻にもその思いは伝わっていたのだろう。
吾妻はその後、23歳の若さで岩出山藩家老の一員となるが、時折しも幕末から明治へと移る激動のまっただ中。戊辰戦争で岩出山藩は旧幕府軍側について敗北。その代償は1万5000石の禄高から65石の扶助米のみに領地を召し上げられるという、あまりにも過酷なものであった。

 吾妻は藩士とその家族が生き残るため、北海道移住を献策。主君の邦直が移住を決意すると、彼はわずか26歳で開拓主事を任される。家臣及び家族数千人の命が、その双肩にかかることになった。

 1871(明治4)年3月、岩出山藩第1回移住団の160人は故郷を出発した。不毛の地“聚富”での苦難、食料を載せた回漕船の行方不明、危険を賭したトウベツの調査、資金稼ぎのための「官営保税庫」建設の請負については前号で記した。
 ここからはその続編として、聚富からトウベツへの道路(実際には人が歩ける程度)開設、岩出山藩に残った者や家族の移住、その後の開拓について再度「石狩川」を参照しながら書き進めていく。

 1871(明治4)年5月、正式にトウベツの土地貸与が許された岩出山藩移住団は、開拓や食糧購入のための資金として、官営保税庫の建設を請負い、1000余円を手に入れることができた。第1回移住団一行の約180人は、飢餓の危機からどうにか救われた。

 次はいよいよトウベツの開拓だ。まず、聚富からトウベツに至る道路建設が始まった。その行程は20キロ余りで、移住団の17歳以上の男性が建設に参加した。

「シップの集落から駆り出された男たちは、今はトビであり土方であり流送人夫であった。木挽き職人の一隊は山と作業場に別れた。一方は原始林に入り必要な材木を伐採した。他方はそれを挽材した。その間の運搬は、静かに流れる川水に任せねばならなかった。」

 炎天下の中、明け方から日没まで必死の作業を続けること11日、どうにか人が通ることのできる道が完成。決意の証として1つの碑が建てられた。

「削った白い標木に、矢立の墨をたっぷり含ませて、筆も折れよと記したのは“旧仙台藩伊達邦直貸付地 明治四辛羊歳五月二十八日建之”」。

 トウベツの開拓はその第一歩を踏み出した。「この地以外に岩出山家中の移住地はない」という邦直の悲壮な覚悟に、吾妻は決意を新たにした。

 同年9月、吾妻は邦直に従って岩出山に帰国。残っていた藩士とその家族をトウベツに移住させるべく、説得にあたる。

「ご本家は28万石になられたが、そのときわれ等のもとには何があったか、何もなかった。1俵のご扶持のお指し廻しはなかったのじゃ。それに引き換え、土地は年々産出するもの、われらこのたび求めた北海道の土地は、公望百里、埴土肥厚、必ず百年の計が立ちます。」

 吾妻は藩士への説得を続けたが、残留藩士の眼は冷たかった。藩士たちは、聚富に移住した仲間の窮状を一部知らされており、吾妻らが持参した、親戚や縁者に宛てた聚富移住民からの手紙も、開拓の悲惨さを改めて思い知らせることになった。
 むしろ吾妻こそが主君・邦直をだまし苦しめる悪臣であると、一部の藩士が吾妻を暗殺しようと企てる。数人の藩士が吾妻を誘い出し、切腹を迫った。吾妻は彼らをこう一喝する。

「お家のためとはどの脳味噌に浮かんだたわごとじゃ。くどくは申さぬとはどやつの口から出た雑言じゃ。たわけものめが、その方らの鈍刀をつきつけておこがましくも、拙者に腹を切れと申しおったな。ふやけた脳味噌どもの指図は受けん、必要とあれば手入れは行き届いておる。この拙者のわざものが。腰抜け者めが。おぬし等の帯刀で人の骨を斬ることはできまい。太平に馴れ、俸禄に甘やかされ、その方ら軍務についていたもの共は張子の虎になりおった。」

 吾妻らの説得に対して、六百数十戸を数える大部分の家臣と、その家族ら千数百人は梃子(てこ)でも動かなかった。結局、第2回移住団に加わったのは44戸の182人のみ。第1回の移住団と合わせても87戸。当初の計画からは大幅に縮小してしまった。そして、船が出港してからも彼らの苦難は続いた。

「春の穏やかな海で、まだ日もすっかり歿してしまわないこの時間に、船は暗礁に乗り上げたというのだ。女共は溢れ出ようとする愚痴を、切なく抑えて胸が一杯になっていた。空腹と寒さが、女ども子供には、泣くほどつらいに違いない。女どもはこの上涙をこらえることは出来なかった、親譲りの丸帯を広げて崩れた模様の上に泣き伏した。来るんじゃなかった、来るんじゃなかった。」

 第2回移住団を乗せた船は、困難を乗り越えてトウベツの沖合にその姿を見せた。
「“あッ!見えた、見えましたァ――”砂丘のあちらに待ち焦がれた人々の姿が出没した。集落はざわめき立った。彼らは走り出した。――日を数えて三十一日目であった。こちらは、あまりの予定ちがいに気ぬけしていたほどの日が経っていた。それでも遂にやってきた。二度と帰らない郷里の距離は遠かった。」

 小説「石狩川」はこれで終わっている。著者・本庄陸男は、二部・三部と書き続ける構想を持っていたのだろうが、本書が刊行されてから二カ月後に以前から患っていた病が悪化。34才の若さで死去した。
 さて、第2回移住団がトウベツに入植した後。悲惨な開墾を覚悟していた彼らを、神は見捨てなかった。春に蒔いた種は天候に恵まれて、秋にはことごとく豊かに実った。彼らの胸には「トウベツに土着する」という熱い思いがこみ上げて来たという。
開拓の糸口をついにつかんだ移住団は、邦直の命を受けた吾妻のもと、民主的な村を目指した。岩出山藩にもこの報が届き、1878(明治11)年には邦直と吾妻が再度旧領地へ帰国。今度は250人が第3回移住団に名乗りを上げ、トウベツへと渡った。
 吾妻は西洋農具の採用、畜産の振興、製麻・養蚕から味噌・醤油の醸造など、新たな取組みを率先して指導。有珠に移住した伊達亘理藩とともに、優れた開拓移住地としてその評価を高めていった。
 吾妻は人に何といわれようと、主君のため、家中のために働き続けた。しかし、家庭ではまったくの無口で、酒に親しむだけだったといわれている。
 1889(明治22)年、吾妻は脳溢血により46歳の若さで生涯を終える。邦直の落胆は目を覆うばかりのもので、当日の日記には「3時30分、吾妻死す、悲観す」とだけ記している。
 当時の移住者はあまりの耐乏生活で、付近の人々からさげすまれていた。ある日、吾妻が屯田兵村を通ると、心ない村人が「当別の乞食」と彼をののしり下肥えを投げつけた。吾妻は「何をする、この下司(げす)共め」と一喝。その威厳に驚いた連中は地べたに這いつくばり、顔を上げることさえできなかったという逸話が残っている。
 吾妻は地味でいて内心に秘めた強靭な意志を持ち、しかも次々と重なる困難に打ち勝って初志を貫いた。「さすが、大地の侍」であった。