「情報を先取り、タブーに挑戦」を編集方針とし、生活者・企業経営者に
最新かつ有益な情報価値をご提供する、北海道の地域政治・経済誌

ロゴ

トップページ > 社長ブログ > 北海道開拓の先覚者達(39)~吾妻謙~

長ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

北海道開拓の先覚者達(39)~吾妻謙~更新日:2015年01月20日

    

「もはや日暮れであった。闊葉樹(かつようじゅ、広葉樹)の隙間にちらついていた空は藍青(らんせい)に変わり、重なった葉裏にも黒い影が漂っていた。進んでいく渓谷にはいち早く宵闇が訪れている。足元の水は蹴たてられて白く泡立った。たちまち暗い流れとなって背後に遠ざかった。深い山気の静寂がひえびえと身肌に迫った」――。
 これは、伊達支藩岩出山藩士族移民の過酷な苦労を描いた長篇小説「石狩川」の書き出し部分だ。「石狩川」は北海道開拓にまつわる史実を素材とした歴史小説。当別出身の作家、本庄陸男が著した、400ページを超える大作だ。本年(2015年)正月休みの間、この本の虜になり読みふけった。
 本作は、かくも日本語は美しく細やかで、かつ人々の心の中を的確に、時には残酷に表現できるのかと驚かされ、読む者を緊張させながら文章に引き込んでいく。練りに練った言葉と文章が、作品の隅々に盛り込まれている。
 劇作家の津上忠は「優れた自然描写と各人間関係をちょうど石狩川の下流の流れのごとく、ゆるやかな運びで、しかも事件的には追わず、歴史的な現実の対象に密着しながら筆を進めている」と巻末の解説で評している。

 今回は、主君・伊達邦直(くになお、小説では邦夷)を助け、士族移民団を率いて当別の開拓にあたった家老・吾妻謙(わがつまけん、小説では阿賀妻謙)の苦闘を、本庄の文脈を借りて取り上げていく。本作は全編、胸に迫る文章で綴られている。本ブログ読者にもこれをお伝えすべく、これ以降のカギカッコ内は小説の本文から引用した。なお岩出山藩の当主・伊達邦直については、本ブログ2013年12月1日号で紹介している。合わせてお読みいただきたい。

 仙台藩は戊辰戦争で官軍に抵抗して奥羽連盟に入り、そこへ岩出山藩も加わった。仙台藩が薩長を中心とする討伐隊の入城を阻んだ一方、それを招き入れた側が南部藩だった。戦に破れた岩出山藩は、それまでの禄高1万4640石をわずか65石の扶助米に減らされ、家臣たちの生活の道は断たれた。

「士籍を剥がれた家臣760名、数千の家族と共に一挙に土民とみなされ、路傍に投げ出された。乗り込んできたのは皮肉にも南部藩だった。」

「宗藩の意思に従った彼ら支藩は、悪く考えたら、その故にまた宗藩から投げ出されたと云いうる。」
 これを鑑みた岩出山藩主・伊達邦直は、家臣に対して蝦夷地に移住する計画を伝え、全員の賛同を得た。家老の吾妻は藩主の意を受けて、仙台藩経由で請願書を出し東京に赴く。しかし、吾妻の動きを快く思っていなかった仙台藩は、彼を捕縛し、東京の仙台藩邸に監禁する。今まで主藩として仕えていた仙台藩からのむごい仕打ちである。
吾妻の監禁中、邦直は明治政府に蝦夷地移住の伺い書を出すが、その申し出に対して政府は「石狩国札幌郡空知郡の内」で「ただし、地所の儀は石狩郡にて指図に及ぶべきこと」という漠然とした支配地許可を与えた。
だが空知郡は海岸に面しておらず、交通・運輸は陸路のみ。蝦夷地で生活する上では必要不可欠な漁獲ができない。生活が成り立つ地であるかどうかさえわからない土地だ。
 邦直は再三にわたってその再考を陳情したが、聞き入れられることはなかった。かくなる上は、吾妻を呼び戻して邦直自らが北海道に渡り、北海道開拓使に直接伺いを立てるしか道はないと決意する。吾妻を呼び戻すため、再三にわたる仙台藩との折衝により、吾妻は6ヶ月ぶりに解放された。だが10日間の監禁延長で、吾妻は邦直の北海道渡航には同船できず、遅れてかけつけた。
 陳情の結果、開拓使から移住が許された地は、石狩湾の聚富(シップ)となった。この地がどのような場所であるかも詳しく判らぬまま、1871(明治4)年3月に岩出山藩第一回移住団160人は故郷を出発した。再び故郷を見ることはないという覚悟の上である。船は吾妻の奔走によって用意された猶竜丸(ゆうりゅうまる)。
 船旅は霧に包まれて座礁しかけたり、沖に出たら折から暴風雨に吹き流されたりという苦難に見舞われた。飲み水を手に入れるために上陸したムロランでは急な西風に見舞われ、船がそのまま出港。陸に残された者たちは徒歩で20里も離れたユウフツまで追いかけなくてはならなかった。その際、背負えるだけの荷物は運んだが、当面必要な物以外は船で回漕することになった。だが予備の食料を積み込み回漕する予定だった船は、いつになっても聚富に到着せず、移民団を苦しめた。

「春を追いかけて陸前の地を旅立った彼等は、3月の下旬にはこの道を歩いていた。日陰のくぼ地にはまだ雪が残っていた。萌え出した雑草が路を塞いでいた。若い木の葉は浅黄色に陽を透していた。雪解け水を湛えた石狩川が、枯れた前年のヨシの穂の上に、または木立の隙間に隠見していた。東蝦夷からシコツの山を越え、彼ら一同160人の老若男女がはるばるとやって来たのである。この大きな川を渡っていった。」

 彼らはやっとの思いで聚富にたどり着くが、そこは悲惨な場所だった。

「霜にうたれてちりちりと枯れ果てた草木の上に、雪は黒ずむほど降り込めた。彼らの郷里にも雪はあった。しかし、この地の雪には棘(とげ)があり、針があった。寒流に乗って北から運ばれ、何ヶ月も何ヶ月も地表は凍えていた。広い雪の廣野には、風をさえぎる何ものもなかった。」

 その後、聚富の地で1年を過ごしたが、まったく開墾の見込みは立たなかった。藩から持ってきた作物の種子もなに一つ実らない。砂地のため耕作には向かず、冷たい風が海から吹き上げる。針葉樹すら満足に育たないような荒地だ。彼らの顔には不安と動揺が日に日に浮かんできた。

 前述のように食料を積み込んだ回漕船は1年経ってもやってこない。家臣の1人は船を懸命に探し出そうとするが、徒労に終わった。その家臣はいたたまれず、腹を切った。さらにその妻は取り乱し「私はもういやでございます。菩提を棄ててきました私どもに、よいことのあろう筈はありません。たった今、今の今、郷里に帰していただきます。見も知らぬこのような土地で、かわいそうなこの仏、行くところも行かれぬでございましょう。私のこの不幸が、ここに居るどなたかに巡ってこないといわれましょうか。今日、今、父、母の地に帰りとうございます。帰していただきたいのです。」と葬式の場で泣き崩れた。

 そんなある日、吾妻の胸に1つの考えが浮かぶ。それはトウベツへの移住であった。実は松浦武四郎作成の地図によって密かに調査をおこなっており、はるか百里まで拓けており、地味よく樹木も鬱蒼と繁る土地だという。
 吾妻は部下3人と案内人を引き連れ、トウベツの実地調査に向かう。手にするのは簡単な方位磁石のみ。うっそうと生い茂る原始林によって方向感覚を失い、猛烈な豪雨は彼らを水浸しにして暖気を奪い取る。2日分の食料が底をついて、部下の1人と案内人を補給のため聚富へ帰すが、その2人は聚富への途中で遭難、帰還することはなかった。1人は結婚して間もない家臣だったという。
 吾妻らはシカやキツネなど野獣の血肉で空腹を癒し、体力と気力を蘇らせてようやくトウベツの地にたどり着く。土を手に取って硬く握り、地味が豊かであることを自ら確認した。

 トウベツの地を開拓する許可を得るべく、吾妻は開拓使の本拠地・札幌を訪れる。折しも札幌は、島義勇の後を受け継いだ岩村通俊が府を建設中だった。

「カヤの生えた原野に町割りを造り、アカダモの樹間には、庁舎、倉庫を立ち並べさせた。九戸しかなかった昨年までの和人部落は、この年211戸の市街地をつくり、13人に過ぎなかった住人は、一躍50倍の624名になっていた。」

 吾妻は岩村の官吏である堀大主典と会い、トウベツ開拓について基本的な了解を得た。

 その後いよいよ、旧領地に残した数千の家臣とその家族をトウベツに移住させる大事業が始まる。だがそのころは彼らを北海道に呼び寄せる資金もなく、第1陣として移住していた160人の食料ですら底をついていた。逼迫する状況を打開するため、吾妻がひらめいたのがイシカリ税庫の入札である。吾妻は堀大主典に直談判し、ほかの業者にほぼ決まっていた税庫建設を請負うことに成功する。
 侍たちが、あるものは大工、木挽きになり、ある者は左官屋や屋根屋になり、懸命に建築をおこなった。建設がほぼ終わり、棟上式の場で仕事を奪われた大工や鳶職が、藩士の1人を袋叩きにする。しかし、その藩士は刀を抜かなかった。吾妻はそれを見て「勝ったのだ」と自分に言い聞かせた。生きるため、また時代の大きな流れの中で、武士が開拓農民に変わっていったのだ。

 伊達邦直一党はその後も次々と困難に見舞われ、苦境は続く。吾妻は彼らをどのように導いていったのだろうか。リーダー論としても吾妻の生き様は参考になり、彼の強靭な意志は大いに読者の胸に迫るものがある。

 次回は聚富からトウベツまでの道路開削と、旧藩領に一旦戻り、残っている藩士と家族を北海道に連れてくるまでの苦闘について書いていきたい。