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北海道開拓の先覚者達(38)~堀織部正~更新日:2015年01月01日

    

 明けましておめでとうございます。本ブログで先覚者シリーズも38回を数え、始めてから2回目の正月を迎えます。今年は私の6巡目の干支、良い年になることを大いに願っております。
 さて、今年最初の先覚者は堀織部正(ほり・おりべのしょう)。堀利煕(ほり・としひろ)とも呼ばれています。堀は開拓神社に祀られていませんが、北海道開拓の歴史に名を留めている多くの先覚者たちが堀に多大な影響を受けています。

 「泰平の眠りを覚ます 上喜撰(高級なお茶と蒸気船をかけている) たった四杯で夜も眠れず」。
1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に入港すると日本中が大騒ぎになった。同じ年にはロシアの施設プチャーキンも長崎に来航。両国は、物資補給と交易を求めて日本に開国を求め、さらにロシアは千島列島・樺太の国境の設定を迫ってきた。
 翌年、幕府はこの事態に対応すべく松前蝦夷地御用掛の堀織部正と村垣範正を松前・蝦夷地・樺太に派遣し、現地調査を命じる。
堀たちの一行が江戸を出発し箱館に到着して間もなく、まだ正式に開港していない箱館港へ、近日中にもペリー艦隊が来航するという知らせを受ける。
 堀は急遽、同行者の武田斐三郎(あやさぶろう)を箱館に残し、アメリカ側との対応に当たらせる。武田は後に弁天砲台と五稜郭を設計施工し、当代随一の知識人として知られていた人物だ。武田は技術者・教育家・武人としても一流の才覚を持っていた。
 武田を残し、堀たちは箱館から日本海岸を通って宗谷に至り、樺太クシュンコタン(旧大泊)に達する。南下するロシア軍との一戦をも覚悟の調査であったが、不思議なことにロシア軍はその姿を見せることはなかった。
ちょうどその時期、ヨーロッパではクリミア戦争が勃発しており、イギリス・フランスなどを中心とした同盟軍とロシアは戦っていた。帰路は樺太からオホーツク海沿岸を踏破し、根室から室蘭へと帰還した。
 なお、堀たち一行には、榎本武揚と島義勇が加わっていた。これがその後の北海道開拓の歴史に大きく影響することになる。榎本は旧幕府軍8隻の艦隊を率いて函館に赴き、蝦夷共和国を樹立。箱館戦争の一方の大将である。島は樺太調査の15年後、二柱の祭神を抱いて札幌まで踏破し、現在の札幌市の基礎を築いた人物だ。
 堀はまた、松浦武四郎の知識と経験の豊かさを認めて樺太調査の同行を要請したが、残念ながら実現しなかった。武田、榎本、島という北海道開拓に心血を注いだ先覚者たちが堀を慕い、思いを一つにしていたことからも、堀の器の大きさがうかがわれる。
 さて、掘たちが蝦夷地調査をした結果、ロシアを始めとする外敵に対して、松前藩の警備体制が極めて脆弱であることが判明した。また場所請負人の使用人らがアイヌを酷使して米などをだまし取った上、アイヌ女性を妾にするなどの非情な扱いをしていることも判明した。
堀は江戸に帰任後、ただちに幕府に調査の詳細を報告し、改善すべき点を上奏した。その結果、松前藩領を除くすべての蝦夷地を再度、幕府直轄とすることが決められた。
松前藩は1799(寛政11)年に東蝦夷地を、1807(文化4)年に西蝦夷地を幕府に召し上げられ、1821(文政5)年に一度は返還されていた。だが33年間にわたるその治世があまりにもいい加減だったことが調査でわかり、幕府に再度取り上げられたのだ。

 1854(安政元)年、堀に加えて竹内保徳、村垣範正が箱館奉行に任命される。3人は江戸執務、箱館執務、蝦夷地全域巡視を交代で務めることになった。
 3奉行はともに市民の敬愛を受けたが、中でも江戸っ子かたぎな堀の人気は高く、親しみをもって「楽焼奉行さん」と呼ばれたそうだ(中村嘉人著「函館人」)。
 それほどに堀を筆頭とする箱館奉行の活躍はめざましいものがあった。まず、ロシアをはじめとする外敵からの攻撃を阻止する強固な防備の構築だ。堀は武田に命じ、台場(砲台)の強化と箱館奉行所の建築をおこなわせた。
外国船襲来に備え箱館沖に建設されたのが弁天台場(砲台)。将棋の駒のような六角形をしており、大砲15門が据え付けられていた。また箱館奉行所はそれまで松前藩が築いた建物を使用していたが、この場所は箱館湾に近く防御に適さないとして、亀田近辺に新たな奉行所の構築を命じた。武田はオランダの城を参考に、星型の洋式の城「五稜郭」を1856年に着工。7年かけて完成した。
 さて、ここで忘れてはならないのが本ブログ29号で紹介した松川弁之助である。松川は、武田の設計した弁天台場ではその建設に、五稜郭ではその土塁築造に深く関わっている。

 堀に関しては、日本発の洋式船「箱館丸」を建造した続豊治(つづき・とよじ)についても触れなければならない(本ブログ28号参照)。続は高田屋の造船所で働いていたが、高田屋の全財産が幕府と松前藩に没収されると、嘉兵衛の弟・金兵衛から受けた恩義により潔く造船業界から身を引き、仏壇屋になる。この続の造船に対する強い思いを呼び戻したのが、箱館湾に入港したペリー艦隊だ。続は夕闇に紛れて小船で軍艦ヴァンダリア号を観察し、見取り図まで作成する。しかし、船員に見つかり手荒く奉行所に突き出される。この時の奉行が堀だった。
堀の裁断は「豊治か、お前大それたことをしてくれたな。箱館のため日本のため責任を取らなければならない。アメリカ船の見取り図をもとに、名人船大工としての仕事を残すのだ」。
その後、続は武田とともに、箱館丸を始めとした多くの洋式船を建造することになる。これも歴史の面白さであろう。

 堀は教育にも熱心で、1856(安政3)年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設した。日本各地から大志を抱いて集まった若者に対し、航海術、物理、兵学、天文学、舎蜜学(化学)と広範な教育を施した。ちなみに学長は武田斐三郎である。
 また、蝦夷地の詳細な地図が必要なことから、松浦にその作成を命じた。松浦は松前藩の悪政とアイヌ民族に対する様々な迫害に憤慨しており、その著書で松前藩を鋭く批判していた。これにより松前藩は彼を敵視。刺客を放って松浦を捕らえる算段をしていた。堀は松浦の経験と知識、並びにその気骨を認め、幕府お雇いとして部下に採用した。これにより、松浦は松前藩からの手出しを受けなくなった。もし松浦が松前藩の手にかかっていたら「北海道」や道内11カ国86郡にも及ぶ地名はどうなっていたことだろうか。
 堀を中心とした箱館奉行は、鉱山の開発、養蚕の振興、貨幣の鋳造・発行(箱館通宝と呼ばれた)など、多面的・多彩な施策を次々と実行していった。
 なお、前回のブログで紹介した早川弥五佐衛門が樺太への渡航を願い出た時に、それを許可したのも堀である。

 堀は箱館奉行を4年間務めた後、1858(安政5)年に幕府新設の外国奉行となる。当時の幕府にとって、海外各国との通商交渉は最大かつ最も困難な課題であっただろう。それを任された堀の人物の大きさ、卓越した外交力は当時の幕府にあって右に出る者はいなかったと思われる。箱館奉行として蝦夷地開拓と外圧からの防御にあたった手腕も高く評価されたと見るべきだろう。
 翌年には神奈川奉行を兼任。諸外国大使との交渉にあたり、また横浜開港に尽力した。各国との通商条約では日本全権の1人として署名している。
 ところが、1860(万延元)年9月、外国奉行・神奈川奉行を免職されている。いったいなぜだろうか。
この年、堀はプロセインとの条約交渉(日普就航通商条約)の日本代表として奔走していた。プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国で、プロイセンの領土は、現在のドイツ北部、ポーランド北部を含み首都はベルリンにあった。
堀はプロイセンの外交官と条約締結に向け交渉を続けていたが、この時に堀がプロイセンと裏交渉をしているとの風聞が立ち、さらにドイツ連邦(オーストラリア)との秘密交渉も露見した。老中の安藤対馬守はこれに激怒。堀は幕府から追及を受ける。
堀はこれに対して何の弁解もせず、1860(万延元)年11月、プロイセンとの条約締結直前に切腹。享年43歳だった。まだまだ日本の開国・外交・国力増強に貢献できた年齢である。墓所は東京都文京区源覚寺にある。

 堀の死後、プロイセンとの条約交渉は村垣範正に引き継がれ、翌年1月、日普航海通商条約が締結された。
 村垣範正は、先に触れたように堀と蝦夷地・北蝦夷地(樺太)を調査・探検し、またともに箱館奉行を務めた人物である。

 村垣範正、武田斐三郎、榎本武揚、島義勇、続豊治、松浦武四郎、早川弥五佐衛門。
 堀織部正の周りには、彼の薫陶を受け北海道開拓に邁進した先覚者たちが何と多いことだろう。開拓神社の祭神には祀られてはいないが、まさに北海道開拓の基礎を築いた英傑である。