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北海道開拓の先覚者達(37)~早川弥五佐衛門~更新日:2014年12月15日

    

「何でも日本一:福井県に学ぶ『幸せな暮らし』の秘密」という特集が、最近ある週刊誌に出ていた。その記事によると、福井県は小中学生の学力と体力が全国1位。社長輩出率や女性の社会進出も1位といった具合だ。わが北海道とはずいぶん状況が異なっている。
 若狭湾と敦賀湾に面した福井県(越前)は、日本有数の豪雪地帯。地域的に有利とはいえないところがなぜ数々の日本一になっているのか。厳しい冬という点では北海道と似ており、大いに参考にしたいところ。そこで調べていくと、福井県と北海道には江戸時代からの深いつながりがあるのがわかった。
 まず若狭湾は、北前船の主要な寄港地の1つだった。旧来から越前と蝦夷地の間では北前船によって交易がおこなわれていた。
 松前藩の藩祖、武田信廣は若狭の人といわれている。武田は上ノ国(江差の南に隣接)・花沢館に寄宿していた際、コシャマインが率いる1万人超のアイヌ軍に包囲された。この時武田は、渡島半島を統治していた安東氏に請われて和人軍の先頭に立ち、アイヌ軍を打ち破った。武田も若狭―松前間の航路を利用していたのだろう。越前の人たちはこのような関係から、蝦夷地に対して比較的深い理解と関心を持っていたと思われる。
 さらに「音羽先生」と慕われた本多利明も越前の人だという説がある。本多は蝦夷地開拓の必要性を他者に先駆けて取り上げ、弟子の最上徳内を蝦夷地探検に派遣した人物。「四大急務」の1つとして「属嶋(蝦夷地)の開業(開拓)」をあげた。「蝦夷地は北緯45度で百菓百穀豊穣の国、この良地を捨て置くのは間違いであり、その間にロシアが侵攻してくる」として北辺の開拓と防衛を強く訴えていた。
 幕府は本多の建言を受け入れて蝦夷地の調査をしてきたが、1855(安政2)年、蝦夷地全体を管轄するとともに、広く士族や農民を移住させて産業開発に取り組むべく布達した。ここで登場するのが越前大野藩だ。

 大野藩(現在の福井県大野市)は県北部の内陸に位置する、石高4万石(実際は約1万石の収量)程度の小大名。だが西洋の先進技術の研究と吸収に熱心だった。7代目藩主の土井利忠は倹約を率先し、1843(天保14)年には藩校「明倫館」を開校して人材を育成。さらに、緒方洪庵の高弟を招いて「蘭学館」を開く一方、家臣を江戸、京都、大阪に留学させて西洋の実学を学ばせるなど学問を藩政の基盤とした。
 また、困窮する財政を立て直すために藩経営の店を開設。最初の店は大阪で、蝦夷の物産や領内の産物を取り扱った。続いて函館にも店を開き、蝦夷地との関係を一層強固なものにする。このように藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな成果をあげ、さらに樺太を含む蝦夷地開拓を目指した。
 藩主・土井の軍師であり懐刀だったのが内山隆佐(りゅうすけ・たかすけとも呼ばれた)。内山は桂小五郎が「事業をさせるなら内山隆佐」と推奨したほどの人物である。
 ペリー(アメリカ)やプチャーキン(ロシア)の来航などで世の中が騒がしくなってきた1855(安政2)年、幕府は蝦夷地開拓と防衛を諸藩に呼びかける。これに応えた大野藩は藩論をまとめ、内山を江戸に向かわせた。そして「大野は厳寒の地で蝦夷地とよく似ており、領民はたくましく寒さにも慣れている。我が国のため役立ちたい」と蝦夷地開拓の意欲を幕府に表明する。
 その翌年、幕府の許可が下りるのを待って内山を現地の総督に、兄の内山良休を在藩のまま御用掛に任命。総勢30人で渡島半島奥地を調査・探検した。ここで登場するのが、本稿の主人公である早川弥五佐衛門。早川は内山隆佐の片腕として調査に加わった。調査結果は開拓計画書を添えて幕府へ報告されたが、努力は報われず開拓の許可は下りなかった。
 早川はその後「蝦夷が駄目なら北蝦夷(樺太)がある」と主張。藩主の許可を得て幕府へ改めて申請する。幕府にとってこの申し出は願ってもないことだった。当時、樺太は日露通好条約で両国雑居地とされていた。だがロシアが積極的に居住民を増やしているのに対して、幕府はロシア南下に対して無策に等しい状況だったからだ。幕府の許可を得た大野藩は、早川を屯田指令に任命。1857(安政4)年、箱館に向かわせた。この時、早川は39歳。
 箱館奉行の堀織部正(ほり・おりべのしょう)に樺太探検の許可を得て、樺太のピレオ(樺太南北の境界線)まで探検する。ロシア人の南下によって多くの現地人が土地を追われたことをピレオで知った早川は、改めて防備の責務を感じたのだという。

 船を持たない大野藩にとって、樺太への渡航は多くの費用と困難を伴うものだった。早川は船の必要性を痛感、藩に願い出る。折しも、大野藩では藩士の吉田永鉄を幕府海軍所に送り込んで航海術を学ばせ、川崎に造船所を設ける計画が進んでいた。早川の要請もあり、大野藩は栖原角兵衛の手代に造船を命じる。
 船は1858(安政5)年7月に進水し大野丸と名づけられた。大野丸は2本マストの帆船で、まず敦賀に向けて出港。途中寄港した下関では、高杉晋作が船の立派さを激賞したという。大野丸の完成で、樺太開拓の準備は整った。
 1860(安政6)年3月、総督の内山隆佐、屯田司令の早川、船長の吉田という布陣で、10人の藩士と20人の領民を引き連れ、大野丸は敦賀湾を出港。28日間かけて箱館に到着した。
 翌年4月、早川は樺太鵜城(ウショロ:樺太間宮海峡沿いの中南部)で開拓と防備を任される。寒さには慣れているものの、樺太の冬は厳しく、早川の手足は凍傷でガラスのように透き通るほどになった。帰国を促されたが、早川は「この島がロシアに占領されるか否かは、自分がここに踏みとどまるか否かだ。一寸も退却することはできない」と、帰国を拒絶する。
 だがロシアの南下は勢いを増すばかりで、当初の見通しよりも出費がかさんだ。幕府に助成を願い出たが叶わず、開拓は大きな壁にぶつかってしまった。やむなく、幕府へ土地を返還する嘆願書を出さざるを得ない状況に追い込まれる。
 この嘆願書に対して幕府は「助成金は出せぬが、大野藩の江戸城における役務は免ずる」とし、引き続き鵜城近辺を領地として警備と開拓を続けるようにと言い渡した。大野藩に対する期待が大きかったのだろう。

 鵜城運営の苦心は言語に絶するものがあった。4度目の渡航の際、船は利尻の暗礁に乗り上げ、その夜には船火事が発生する。早川は「書類と用金を失ってはならぬ」と部下の制止を振り払い、2度にわたって海に飛び込み、猛火の中でそれらを持ち帰った。この果敢な行動と責任感があったからこそ、鵜城で開拓と警備を続けることができたのであろう。
 しかし1862(文久2)年、北蝦夷開拓に熱意と理解のあった藩主の土井が隠居。1864(元治元)年には内山総督も死去した。大野丸は根室で難破、沈没してしまい、開拓はいよいよ行き詰まった。大野藩は莫大な費用と大きな犠牲を払った北蝦夷地を明治新政府に返還、開拓事業に終止符を打つ。
 その後、1875(明治8)年に黒田清隆の下で榎本武揚が結んだ「樺太・千島交換条約」交渉で、大野藩が北緯50度まで開拓したという事実は、日本側に有利な影響を与えたものといわれている。

 福井県大野市歴史博物館にある早川の人物画を見ると、頬骨が高く顎には見事な山羊ヒゲがたくわえられている。まさに武士の顔である。
 早川は1883(明治16)年、65歳で死去する際「武士がその魂を手放して逝けるか」と家族に大刀持ってこらせ、それを抱いて絶命したと伝えられる。

 福井県教育基本計画には「確かな学力の育成」「豊かな心と健やかな体の育成」「信頼される学校づくり」「家庭・地域の教育力工場」「生涯学習とスポーツの振興」「文化の振興」の5項目が掲げられている。
藩主の土井を中心として大野藩が築き上げてきた文化が引き継がれているかのように思われる。
 ちなみに、福井県が全国一になっているのは、冒頭にあげたほか「低い失業率」「住みやすさ」「10万人当たりの緊急病院の数」「刑法犯検挙率」「食べ物のおいしさ」「食物繊維の摂取」などがある。一方、全国で最も少ない(低い)のは「年間完全失業率」「救急車出動回数」「女性未婚率」「非正規雇用率」などだ。

 北海道と歴史的に強い関係が結ばれている福井県と交流を増やし、大いに学ばなければならないだろう。