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シリーズテスト
北海道開拓の先覚者達(36)~小林重吉~
更新日:2014年12月01日

    

 私が小樽商科大学に入学した時の学長・加茂儀一先生は、私が最も尊敬する研究者だ。加茂先生は、理工学系の東京工業大学でレオナルド・ダビンチの研究をなさっていた。小樽に来られてから榎本武揚の研究に取り組まれ、1960(昭和35)年には中央公論から「榎本武揚」を出版している。先般、母校同窓会札幌支部のサテライトセミナーがあり、榎本と箱館戦争についてお話させていただく機会を得た。
 幕府脱走軍は箱館の五稜郭を本拠として「蝦夷共和国」を設立。蝦夷地の開拓と自治を目指すが、翌年官軍の総攻撃を受け、五稜郭を無血開城するに至る。
 この時、官軍の勝利に貢献した1人の商人がいた。

 1868(慶応4)年8月19日、榎本武揚率いる幕府艦隊は品川を出港して蝦夷地に向かった。開陽を旗艦とし、回天、播竜、千代田形、神速丸、威臨丸、長鯨丸、高雄の総数8隻の勢力である。当時日本にある海軍力のほとんどといえる陣容で、榎本軍は官軍に対して圧倒的な制海権を確立していたかに見えた。
 しかし、威臨丸は出発後間もなく艦隊からはぐれ、清水で修理中に官軍に捕縛される。開陽は松前城(福山城)攻撃時に江差沖で大破し、浅瀬に乗り上げた。さらに、戦況を有利にすべく宮古沖で官軍に対し奇襲攻撃を仕掛けたが、悪天候もあって高雄を失う。その後の戦いで回天と播竜も汽缶(ボイラー)を砲撃されて航行の自由を奪われ、千代田形も失った。これで官軍(新政府軍)は旧幕府軍に対して逆に圧倒的な制海権を握った。
 劣勢の中、榎本軍は箱館湾内に杭を打ち込み、それに幾重にも網をかけて官軍艦隊の湾侵入を阻む作戦を展開した。この時、ひそかに船を出して官軍に敵情を報告し、海中の杭を抜き、網を切り、官軍の突入を助けたのが小林重吉である。

 小林は1825(文政8)年に箱館で生まれる。祖父の代から日高三石の場所請負人として昆布の生産を主業としていた。祖先は福山(松前)で栖原屋を称しており、栖原家と深い関係にあったが、9歳の時に父の後を継ぎ小林を号とした。小林は清水谷公孝が官軍の命を受けて箱館裁判所総督(後に箱館府知事)になると、町年寄りに任じられ帯刀を許される。仁義に篤い小林はこの処遇に恩義を感じ、薩長を中心とした新政府に身を捧げる覚悟を固める。
 榎本軍が蝦夷地に進出した際も、旧幕府軍に迎合する姿勢は決して示さなかった。戊辰戦争で戦火が奥羽に広がると、津軽からの米の移入が途絶え、旧幕府軍は食料調達にやっきとなった。住民に米の供出を迫ったが、この時小林は「食う米がないばかりに南部に避難した人さえいる。お前様方に渡す米はない。あったところで1粒だって渡せるものか」と、旧幕府軍の武士たちに啖呵を切ったという。

 官軍は1869(明治2)年2月、箱館突入を決行したが水先の不案内と港内に張りめぐらせた網に阻まれて後退せざるを得なかった。小林は佐野孫右衛門(開拓神社に祀られている37柱の1人で近日中に本ブログに掲載予定)とともに部下の船頭たちに命じ、夜陰に紛れてひそかに海中に打ち込んだ杭を引き抜き、網を切って官軍艦隊の進路を確保した。また、自ら箱館山から旧幕府軍を奇襲攻撃する道筋を案内し官軍勝利のもとをつくった。
 箱館戦争が終わり、開拓使が設置されると、小林はその功を認められて大年寄りに任命され、厚岸場所も任される。この年に漁場請負人は漁場持制度に改められたが、小林は引き続き三石郡の漁場経営を許された。箱館戦争時の官軍への協力によるものだろう。
 小林は日高・三石の場所を請け負っていたと前述したが、彼が開発し有名になったのが、三石昆布だ。小林は粗製乱造の昆布が世に流通することを危惧していた。

 1878(明治10)年に三石郡に昆布の製造所を建設し、大量生産と品質の均一化を図った。三石昆布は品質の高さが評判になり、日本全国だけでなく中国へも輸出された。販売を三井物産に委託して三石昆布の名声を高めるとともに、水産加工産業の振興にも尽力。この頃には、魚粕、昆布、酒、鱒を扱い、その売り上げは3万円(6億円)に達する勢いであった。

 江戸後期において、多くの場所請負人はアイヌの人たちを牛馬同然に酷使していたが、小林は違った。「アイヌも同じ人間であり場所経営の重要な労働力である」として、賃金も和人とアイヌの分け隔てなく同等に支払ったという。今でいう「同一労働同一賃金」だ。
 アイヌの人たちに対して慈しみの態度で接し労働意欲を高めたこともあり、日高沿岸の昆布生産は増加。三石昆布はいよいよ有名になっていく。
 また農林開発にも積極的に取り組み、箱館府から町年寄りを命じられると、亀田町に20ヘクタールの水田を開き、赤川村にはアスナロや杉を植林し、今も立派な林として残っている。私も45年ほど前、函館に数カ月間住んだことがあるが、アスナロ宅建とかアスナロ保育園とか、アスナロの名前がついている施設がいくつかあるのを記憶している。

 三石昆布とともに後世に小林の名を知らしめた業績として、海運業の振興と船員養成学校の設立がある。
 開拓使制度が敷かれた翌年の1871(明治3)年、小林は西洋型帆船「洪福丸(後に万通丸)」を買い入れ、これを物産運送に活用した。
 続豊治が1857(安政4)年に箱館奉行の命を受け、日本最初の2本マストの西洋型帆船・箱館丸を竣工させたが、明治の初めまで民間で使用されることはなかった。道内で民間人が西洋型帆船を所有したのは小林が最初である。その後も、日高丸、三石丸を建造して海運業に乗り出す。
 海運業を振興させる上で、船員の養成が必要であることを小林は痛感した。開拓使は西洋型船の造船を奨励したが、船員の養成には手をつけていなかったのだ。
 このような中、小林は1878(明治10)年、青森から長男の友人で航海学に優れた教師を招き、日高・三石の自宅で養成を始めた。翌年には養成所を箱館に移した。生徒の年齢制限は無く、学費も免除。午後6時から9時までの間、信号旗用法、羅針盤による方位測定、算術など航海に必要とされる当時の最新技術を学ばせた。生徒の多くが現役の船員や船頭で、夜間学校としたのは、日中働く彼らのためだった。
 海運業の発展に伴い、船員は自社だけでなく官民を問わずその必要性が増した。養成所は毎年拡張を続け、1883(明治15)年に函館県立商船学校、1889(明治21)年には逓信省管理、そして1902(明治34)年には函館商船学校となった。1935(昭和10)年に閉校となるまで、実に650人の卒業生を送り出した。同校の設備は北海道庁函館水産学校に継承され、現在の北海道立函館水産学校として続いている。
 日本初の商船学校である東京の三菱商船学校に遅れることわずか数年、函館商船学校は民間として初めて設立され、その後は公立商船学校のシンボル的存在であった。

 北海道開拓に大きな足跡を遺した小林は寡言篤行の人で、努めて自分の名が広く世に出るのを避けた人柄であったという。1904(明治36)年4月30日、78歳で死去した。

 今朝(11月27日)7時、北海道神宮近くの温度計はマイナス5度を指していた。円山公園の池もほとんどが凍りつき、残されたわずかの水面で5羽の鴨が餌をついばんでいる。衆議院選挙の喧騒の中で飛び立っていくのだろう。