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北海道開拓の先覚者達(35)~タコ労働者~更新日:2014年11月15日

    

 11月1日、ついに新幹線の新青森・新函館北斗間の線路がすべてつながり、締結式がおこなわれた。いかにもスピードが出そうな10両編成の新車両も公開され、2016年3月開業に向けた準備が整った。
 新幹線が東京オリンピックに合わせて開業してから50年。“青函連絡船から新幹線へ、世紀を超えて……「海峡が見た夢」”と銘打った写真展がJRタワーで開催されていた。函館駅に列車が到着すると連絡船まで大急ぎで駆け出し乗船した時のこと、そして60年前の猛烈な台風で洞爺丸など連絡線5隻が遭難した時の記憶が蘇ってきた。鉄道は輸送インフラとして北海道開拓に多大な役割を果たしたが、その歴史にはいたましい記録が残されている。

 明治初期の北海道開拓は伊達藩などの士族移民、東北を中心とした農民・屯田兵の移住、さらに前回記した集治監囚人によって開墾・道路建設が進められていった。しかし、北方(ロシア)からの脅威に対抗するためにも明治政府は北海道開拓を急ぐ必要があり、道路・鉄道・発電所建設などに多くの労働者を必要としていた。1896(明治29)年5月、北海道鉄道敷設法が公布され、全道の鉄道網建設がその年から15年計画で一挙に進められることになった。
 一方、集治監囚人の非人道的労務は、教戒師やキリスト教の人たちによりその内実が知られるようになる。その結果世間の批判が次第に高まり、1894(明治27)年の北炭幌内炭鉱を最後に囚人の外役労働は廃止。1908(明治41)年には監獄法が公布され、囚人たちは規則によって守られるようになった。労務者確保のためここで登場したのが「監獄部屋」である。
月形樺戸博物館には“囚人外役に代わって登場したのが「監獄部屋」で、いわゆるタコ労働であった。タコ部屋は本州方面から「ポン引き」と呼ばれる斡旋屋の手引きで連行された土工夫たちを土木工事に半強制的に就かせる労働形態。明治30年以後に制度的に確立したといわれる。第2次大戦まで「タコ」と呼ばれる土工夫が本道の土木工事の主要な労働者だった”とパネルに掲示されている。
 タコ部屋とかタコ労働とかは今まで何度か耳にしていたが、タコツボに入れられ、そこから出るに出られない状態で働かされていた労働者という理解で、かなり昔のことと思っていた。タコ労働の別の語源としては、北海道からの労働者を「自雇」というのに対し、東北を中心とした道外から雇われた労働者を「他雇(タコ)」と称していたとの説もあるそうだ。いずれも監獄部屋労働者である。
 監獄部屋(タコ部屋)の特徴としては、第1に小資本(孫受け)の土建飯場から生まれた拘禁労働(自由を奪っての酷使)。第2に土建業に特有な前近代的な下請け制度に上に成り立っている。そして第3は前借金を口実にした「周旋」という名の人身売買や誘惑である。周旋屋は宿屋、料理屋、博打場、女郎屋に張り巡らされ、支払い不能な客を「監獄部屋」に斡旋。さらに第4として、役所や官憲が必要悪としてみて見ぬふりをして制度を保護していたというものである。このような制度が第2次大戦後まで続き、占領軍(米国)GHQによって改められるまで続いていたというのは驚くべきことであり、日本労働制度の後進性を示すものだ。

 松方デフレ(1881(明治14)年に大蔵大臣になった松方正義が実施した「緊縮政策」)で窮乏化し、農民は農地を売却し都市に流入し労働者になる者も。
 女子は「女工部屋(女工哀史の舞台)」に、男子は周旋屋の餌食となった者も多い。「旅費、小遣銭支給、被服貸与、日当は普通の2倍」の甘言に乗せられ、農家の二・三男や苦学生、破産した商家の丁稚などが「監獄部屋」に誘われる。一種の人身売買である。用心棒付きで北海道の現場に送られる。着いた時は身に覚えのない食事や酒代、被服費、乗車・船賃がツケ勘定になり、前借り地獄に陥ってしまう。不服を言うとたちまち鉄拳が振り下ろされ、リンチや脅迫は日常茶飯事だった。囚人の場合は監獄則があったが「タコ部屋」には囚人並みの保護策すらなかった。
 タコ部屋の発生は1890(明治23)年の北炭室蘭鉄道工事から始まったといわれている。「北海道行刑史」を執筆した法制史研究家で網走監獄保存財団顧問も務めた重松一義氏は著書「北海道行刑史」で「北海道の監獄部屋は鉄道敷設工事から始まった」と記している。
 1906(明治39)年の鉄道工事でタコ労働者の酷使は激増する。道内のタコ労働者は毎年2万人から3万人。逃亡者は年平均22%、多い時には6800人にもなり、その半数は実際には死亡者である。
 この時期、財政緊縮で政府は資金調達のため政商へ官営工場・鉄道の払い下げをおこない、独占資本は資源開発を目標として北海道に進出してきた。彼らは前近代的な下請け・孫請け制度で巨利を得て、その犠牲を孫受けとそこで働かされている「タコ労働者」に負わせた。
 最もタコ部屋の矛盾が問題化されたのは、明治末から大正初期に敷設された網走線、留萌線、宗谷線、名寄線、根室線、湧別線、下富良野線など内陸奥地で逃亡が極めて難しい場所にあった「タコ部屋」である。
 湧別線工事で誘拐されタコ労働者になった石島福男(1897(明治30)年生)の手記が遺されている。「役に立たなくなれば、握り飯2、3個を与えて投げ出され、行き倒れになる者も。病気に罹っても医者に診せるではなし、全快の見込み無き者は線路の下に生き埋め。巡査は月に2回ばかり見回りに来るが、袖の下でごまかす。逃げ出したりすると、2、3人が馬に乗りピストルを持ち後を追う。山に逃げこみ道を失い行き倒れ、熊に食われる者も。見せしめのため火あぶり、酒をかけ蚊攻め。惨めきわまる。この工事での死者は百数十人といわれるが、使者の多くは線路脇に土と一緒に埋められた。」とその惨状を記している。
 王子製紙の支笏湖水力発電工事については、同社に記録が残されている。「内地から誘惑されてきた多数の人夫を使用し、酷使に耐えかねて逃走するものも多かった。山林中にセメントの空き樽が山と積んである。逃走人夫が死んだ時に使う棺おけといわれている。夜は豚小屋で錠をかけられ一歩も外に出られない。人夫の多くは凶作で食うに困った宮城県人で、周旋屋の甘言で連れてこられた。毎朝三時より働かされ、終日寸暇もない。逃亡せんとするも、監督者が終夜銃を手にして立ち番。死を決して後方の山中に逃げ、空知川を越えようとして急流に溺死する者数知れず。」 もうこれ以上書くことはできなくなった。

「北の先覚」の著者高倉新一郎が監修した「北海道の研究」第5巻には「囚人に始まりタコ部屋労働者、朝鮮人・中国人の強制連行・労働にいたる歴史は日本資本主義の封建的性格を明示している」と指摘。これら強制労働は何と太平洋戦争の敗北によっても終わらなかった。終戦の1年後、ようやくGHQの中止命令で廃止されたのだ。この時開放されたタコ部屋は289、タコ労働者が1万2663人である。検挙された周旋業者56人、土建業者66人に上っている。
 私が生まれた1943(昭和18)年以降も、これだけの規模で「監獄部屋」労働がおこなわれていたことを知り、胸が押しつぶされるような思いがこみ上げてきた。

 彼等は機械や動力を与えられることなく、明治初期から一貫して「モッコ」と「ツルハシ」だけで鉄道を敷設し、鉱山を掘削し、水力発電施設を造ってきたのだ。命まで軽んじられた壮絶な労働(酷使)によって、鉄道網が、電力網が、そしてエネルギー源が生み出され、今の我々の生活の基盤となっている。
 北海道開拓の礎となった方々に思いを馳せると共に、その労苦に応えるよう新たな北海道開拓を進めなければならないと思う。

 いよいよ本格的な冬を向かえ、昨日から札幌市内には雪が降り積もった。円山公園ではエゾリスがせわしなく走り回り、冬の間の食料を貯めこんでいる。