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北海道開拓の先覚者達(34)~集治監~更新日:2014年11月01日

    

 ナビは月形町までの走行時間を1時間半と示していた。国道275号線を走ると左側の山々は秋の色が真っ盛りで、黄色に色づいた木々の葉に真紅のモミジが鮮やかさを加えている。暖色系で、山々に最後のぬくもりを与えているようである。
 一方、右側の田畑は刈り取りが終わり、褐色の地面が冷えびえとしている。やがて降り積もる雪に身構えているようだ。
 月形町役場に隣接している「樺戸集治監」が今回の目的地。北海道の監獄では網走が有名だが、それに先立ち設置された、日本で3番目の監獄である。

「ここに来たら2度と帰れないと恐れられた北の監獄。本格的な北海道開拓に先駆けて基幹工事をおこなったのは、ここから逃れられない境遇の囚人たち。極寒の原始林を開く工事は罪を犯した者に課せられたとはいえ、あまりにも過酷で非人道的であった。囚人たちは多くの犠牲を払ってこの難工事を完成させた」
 月形樺戸博物館にはこのように記したパネルが掲げられている。今回は、もう一つの開拓史「北海道を拓いた囚人たち」について調べてみた。

 1876(明治9)年、「佐賀の乱」「秋月の乱」「萩の乱」が発生し、10年には「西南戦争」が勃発する。これらの乱で薩長政府が「賊徒」と呼び、逮捕した反乱者は1878(明治11)年までに4万3000人に及び、東京(小菅)、宮城(仙台)の両集治監の収容人員を大きく上回る。
 開拓使長官の黒田清隆は「囚徒に修身を学ばせ、新聞も読み聞かせて維新による時代の趨勢を教え、反乱の非を悔悟するように指導し、満期の後は帰郷を断念させて北海道の良民となるように訓戒」と北海道への送還を提案した。
 これに対し、伊藤博文は「北海道に集治監を置くことによって、本州の監獄の負担を軽減し治安を安定させる」「安価な労働力で北海道開拓に役立てる」「人口希薄な北海道に安住の地を与える」という安易な一石三鳥策を打ち出し、北海道に集治監を設置することを決めた。
 設置場所の選定は月形潔ら3人の調査団にゆだねられた。候補地は石狩国樺戸郡、羊蹄山山麓、十勝川沿岸であったが、羊蹄山は人家が多く、十勝は交通の便が悪く、最終的に樺戸が選ばれた。

 1881(明治14)年春、東京集治監から40人の囚人が樺戸に送られ、獄舎建設と開墾作業に従事させられた。囚人たちは赤い囚人服を着、2人ずつ腰縄でつながれ、両足首には鎖が、そしてその先には重い鉄丸がつけられた。同年9月に樺戸集治監が開所。調査に当たった月形が初代典獄(監獄長)に任命される。ちなみに月形町はその月形の名前を取ってつけられている。
 1881(明治14)年末には収監された囚人数は460人に達する。囚人たちに、経験したことがない厳しい冬が早々に訪れる。典獄の月形は囚人に手袋を支給すべく申請したが薩長政府はこれを却下。さらに綿入れ・股引は公金が届かず購入できなかった。獄舎の中は火気厳禁、零下10度を下回る寒さの中、囚人たちは毛布にくるまり、板敷きの床に寝なければならなかった。
 翌1882(明治15)年には収監された者837人中119人もの死者が出ている。さらに、脱走や服役違反をした囚人は独居房に入れられる。独居房は90センチ四方の光の入らない闇室で正座を強要され、食事も半分以下に減らされる。皮でできた着衣は乾くと胴体が締め付けられて呼吸困難に陥る。さらに監獄の規則を著しく犯した囚人にも足に鉄丸がつけられる。
 樺戸集治監には、薩長政府に対し反乱を起こした「賊徒」や凶悪な重罪人に加え、自由民権運動にかかわった「政治犯」も収容されていた。1917(大正6)年に閉鎖されるまでの収監者総数は4万6722人。そのうちの多くがそうした政治犯らで、脱獄・逃走を試み斬殺や銃殺され、さらに劣悪な環境で病死した囚人も多い。死亡者総数は記録されているだけで1046人に達する。

 1868(明治元)年に幌内炭鉱が発見され、その5年後に榎本武揚が優良な鉱脈であるとの調査結果を出すと、明治政府内で幌内炭鉱に囚人を使えとの声が高まる。
 1882(明治15)年、幌内炭鉱採炭の目的で空知集地監が建設される。年々収容人員は増加し、1890(明治23)年には3048人もの囚人が採炭の外役に処せられる。
 坑内は狭く、囚人たちは匍匐(ほふく)前進で採炭しなければならない。1日12時間労働、飲料水は汚水で腐敗し飲料に耐えず、また炭鉱ガスと炭塵で囚人の体力を蝕んでいった。落盤による事故も相次ぎ、1889(明治22)年には在監者1968人の内、発病者が延べ9369人、死亡者265人を出している。まさに地獄だ。開設してから1897(明治30)年に閉館になるまでの死者は941人と記録されている。

 1885(明治18)年、明治政府内務卿の山県有朋は「釧路集地監」の建設を指示。その目的は屈斜路湖村の硫黄山の採掘労働に、安価で使える囚人を当てようとするものだった。硫黄の粉塵と亜硫酸ガスに冒されて罹病者が続出。翌年6月までに42人が亡くなっている。クリスチャンの悔悟師がこの地を訪れ「これでは殺人労働だ」と報告し、即時中止を進言した。1888(明治21)年、囚人による硫黄の発掘は中止された。

 囚人に対するこれほどまでの過酷な扱いの背景には「囚人が死ねば監獄費の節約になる」という明治政府(薩長出身者)の非人道的な姿勢があった。
 長州出身の山県は懲戒駈役(ちょうかいくえき:囚人の徹底的な酷使)を主張する。「耐え難き労苦を与え、罪囚をして囚獄の畏る(おそる)べきを知り、再び罪を犯すの悪念を絶たしむるもの、是れ監獄の本分なりとす」。山県は全国の監獄にこの通知を送っている。
 同じ長州出身の伊藤博文は側近の金子賢太郎に北海道視察を命じる。金子はハーバード大学留学経験を持ち、当時32歳の「切れ者」として伊藤の懐刀であった。金子は北海道庁内の薩摩藩の追放を求めるとともに、集治監の囚人を道路建設に使役すべきと復命(報告・意見具申)した。
「彼等(囚人)はもとより暴戻(ぼうれい)の悪徒なれば、その苦役に耐えず斃死(へいし)するも(略)、囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに耐えず斃れ(たおれ)死して、その人員を減少するは監獄費支出の困難を告ぐる今日において、万止むを得ざる政略なり」との復命書も提出している。
 囚人が死ねば監獄費が節約できるという冷酷無比、非情な報告である。これにわが意を得たりと歓迎したのが山県である。これにより開拓のあり方は大きく変わった。道路建設への使役である。
 なお話は逸れるが、吉田松陰の愛弟子の前原一誠は維新で活躍して新政府の参議兼兵部大輔を勤めた人物。彼が「萩の乱」を起こした後、同じ長州の木戸孝允や伊藤、山県がおこなった処置は直ちに斬首。あまりの厳しい処分に「これが長州(山口)の体質」と批判を浴びたものだ。

 さて、囚人よる道路工事であるが、1886(明治19)年に樺戸(月形)と峰延(空知)間約18キロの工事がおこなわれた。当時もっとも困難な工事として知られ、泥炭地・湿地帯に何万石もの丸太を敷き、砂利を盛って一直線につくられた。この年、樺戸集地監で亡くなった40人の囚人の多くが、道路建設に携わった人たちだ。

 1891(明治24)年には樺戸が北海道集地監の本監となり、網走分監が設置される。その目的はロシアからの侵犯を防ぐための軍用道路の建設で、800人の囚人労働者が投入された。結果としてその内200人が殉職するという日本行刑史上最悪の結果をもたらしている。その最大の原因は、当時の屯田兵本部長官、永山武四郎がロシア帝国の東進政策に恐れをなし、その防衛を強化するため年内の完成を厳命したことによるといわれている。
 背景には金子の冷酷無比な復命書と、それに乗じて懲戒駈役を採用した明治政府首脳、さらに政府方針に異議を唱えることができない北海道庁の姿勢がある。
「囚人たちが開拓に携わった期間は短いが、その多くが挫折した。もっとも過酷で重要な基幹工事を担ったのである。囚人のつくった道路や田畑、屯田兵舎が人を集め、開拓を推し進める原動力となった。その道路の総延長は820キロ、開墾した畑の総面積は690ヘクタールもの実績を残している」と、開拓記念館には記されている。その犠牲を考える時、なんともいえない思いが込み上げてくる。

 樺戸集地監からの帰り道、国道275号線沿いにある篠津山囚人墓地をお参りした。ここには39年の間に病気や事故、虐殺で亡くなった1022人の囚人が無縁仏として眠っている。未開の厳しい自然下での開墾、鉱山開発、道路の開削、橋梁工事、屯田兵屋の建設などの使役は、長時間におよぶ過酷な労働に加え、医療衛生・栄養の不備から多くの犠牲者を出した。安らかな眠りをお祈りするともに、北海道開拓の功労者たちに深い感謝を捧げた。

 円山公園の池では、春から秋にかけて子どもを生み育ててきたカモやオシドリが、冬の訪れとともに次々に旅立っている。30羽ほどいたものが、今朝は5羽ほどに減っていた。いよいよ雪の季節だ。

 今回のブログは、月形樺戸博物館資料、若林滋氏著「流刑地哭く」、北海道の研究・5、小池喜孝氏論文を参考にしました。