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北海道開拓の先覚者達(30)~清水谷公孝~更新日:2014年08月31日

    

 蝦夷から北海道に改称されて145年。今年も命名の日8月15日に開拓神社で祭礼が催された。4体の子ども神輿を担ぐ少年少女数十人も参加し、伝統に則り式典は進められた。宮司さんからは開拓神社に祀られている37柱の中から、北海道の名づけ親・松浦武四郎、札幌の市街地を設計した島義勇の両先覚者を取り上げて講話があった。少年少女たちは、祭礼の後の神輿担ぎに心を奪われていたのだろう、気もそぞろで宮司さんの話を熱心には聞いていない様子だった。
「北海道開拓の先覚者達」をブログに掲載してから早いもので、今号で30回を数える。開拓神社に祀られている37柱の先覚者には一般によく知られていない人々もおり、その功績や生き方について今後も調べていきたい。

 今回は、幕末から明治にかけて初代箱館裁判所総督、箱館府知事を務めながら時代の激流に翻弄され、志を遂げることなく若くして亡くなった清水谷公孝(しみずだに・きんなる)について調べた。
 清水谷は名前で分かるように公家(貧乏公家)である。武士や商人のような逞しさがあるわけではなく、どちらかというと学問や芸術を好み、優柔不断で他人からの影響を受けやすい、心優しい人であったようだ。
 清水谷は公卿・清水谷公正の子として1845(弘化2)年に京都の名門の子として生まれる。この年は松浦武四郎が東蝦夷地を踏破した年である。
 清水谷家は石高こそ200石程度だったが、代々書道の名門だったという。清水谷は幼いころから比叡山に入り仏弟子の修行をさせられたが、兄が亡くなったことにより、わずか10歳で清水谷家を継ぐ。その後、官位はあがっていき、62(文久2)年には17歳で侍従を申し付けられ光明天皇、明治天皇に仕える。

 時あたかも幕末の大変動期。67(慶応3)年に王政復古の大号令が発せられ、翌年、鳥羽伏見の戦いが勃発する。明治維新の幕が切って落とされたのだ。清水谷公孝24歳の時である。
 京都の清水谷家は自宅の警備をしてもらっていた会津藩と親しく、その関係から王政復古に積極的には貢献することはできなかった。この負い目が清水谷の焦りとなったのだろう。皇室のため新政府のため、何をすると役に立つのだろうかと思案していた。
 当時、新政府の財政は逼迫しており軍用金を必要としていた。ここに目をつけ、以前修行していた比叡山に赴き資金を得ようとした。
 この時同行したのが岡本文平(後の岡本監輔)である。岡本は以前より清水谷家に寄宿しており、清水谷に学問を教授したこともある。清水谷にとっては心より信頼する先生であり、兄貴分でもあった。
 岡本は清水谷に「この大変に気を取られて北辺のことが空になり、ロシアに乗ぜられたら大変である。早く蝦夷地に赴き、朝礼を伝え、島民を安堵せしめることこそ急務である。僧侶に金を募って軍用金に当てるがごときは些事にすぎない」と清水谷を説得する。
 さて、岡本であるが、彼は間宮林蔵の書物を熟読するとともに松浦武四郎に師事し、北辺(特に樺太)の重要性を強く意識。自身も樺太に渡って、その開拓の必要性とロシア南下政策への対応を痛感していた(本ブログ第21回で紹介)。岡本は、自らの使命を達成するために清水谷を利用しようとしたのではないだろうか。
 岡本の熱弁に若く純粋な清水谷は痛く感激し、同じく公家の友人、高野保健(やすたけ)とともに、速やかに蝦夷地に鎮撫使を派遣すべきと明治天皇に建議する。その内容は「旧幕府軍が蝦夷地に進出する懸念があり、さらにロシアが混乱に乗じて南下する恐れがある。蝦夷地の漁業を開発すると戦費が賄える。自分は200人ほどを率いて蝦夷地に赴く用意がある」というもので、天皇は直ちにこれを採択された。さらに、次の建議書には「有志の者たちを自由に蝦夷地に移住させる。ロシアと親交を結ぶべきで、そのためにブラキストン(本ブログ第22回で紹介)を雇うべきである。石狩に本拠を置き、場所請負制は廃止すべき」などの7項目の具体案が示された。
 両人の建議により、明治政府は函館奉行を廃止して函館裁判所を設置することを決める。裁判所といっても実際には蝦夷地全般の統治を司る役所である。
 総督には仁和寺宮親王が命じられたが、仁和寺宮はその役を固辞したので、代わりに清水谷が初代裁判所総督に就任した。配下には参謀格で薩摩出身の井上長秋(いのうえ・よしたけ、本ブログ次回掲載)、そして権判事として岡本監輔ら5人が配された。
 清水谷は役職を賜ったものの、出発に際して資金も移動手段もなかった。そこで蝦夷地で手広く事業を営んでいる近江の豪商から5万円を調達し、船は長州藩所有の老朽船を手に入れた。しかし船頭は酒田より北には行ったことがない人物で、ただひたすらに北に向かって進んだ。そして運よく着いたところが江差の近くだったという。なんとも大胆というか無鉄砲な計画だ。
 箱館到着後、五稜郭で函館奉行杉浦兵庫頭と業務引継ぎを無事終えたが、その10日後には箱館裁判所が箱館府に改称された。従って清水谷は初代「箱館府知事」に就任することになる。
 一方、岡本は念願通り樺太を任され、農工民200人を率いて現地に向かった。岡本監輔の目論見、すなわち公家の清水谷を前面に立てて(利用して)樺太開拓の夢を実現しようとした作戦が、見事に実ったのだ。

 その当時、奥羽列藩は新政府に対抗する奥羽連合を結成し、新政府は討伐に向けて進軍を開始した。箱館を警備していた伊達藩、会津藩をはじめ東北諸藩は次々と陣屋を焼き蝦夷地を引き払っていった。残るのは弱小の松前藩のみである。
 さらに、悪いことは重なるもので、清水谷の片腕として箱館府を事実上差配していた井上石見(長秋)が購入したばかりの箱館丸(本ブログ第28回で紹介)に乗って根室に行き、その帰路に船が難破し行方不明になってしまう。
 江戸湾を脱走した榎本武揚率いる幕府海軍は68(明治元)年10月20日、内浦湾鷲の木(現在の森町)に上陸し、函館に迫った。清水谷は蝦夷地を管轄する箱館府知事として陣頭指揮を執らなければならない。だが箱館戦争が勃発すると箱館府の急造部隊は質量ともに圧倒する榎本軍に対抗できるわけもなく、清水谷は早々に側近を連れて青森に逃げ落ちる。
 清水谷は蝦夷地撤退を恥じ入り本営のある青森ではなく浪岡で謹慎したが、新政府は彼を罰することなく11月に青森口総督を命じる。しかし公家の清水谷に軍事指揮ができるわけでもなく、参謀の黒田清隆が事実上の総大将としてこれにあたった。翌69(明治2)年5月、幕府脱走軍は黒田清隆率いる優勢な兵力と彼の巧みな戦略・戦術により五稜郭で降伏。
 これで清水谷は晴れて青森総督から箱館府知事に復帰した。しかし、その期間もわずかなものであった。新政府の要であった岩倉具視は、箱館府が期待された実績を挙げていないと判断し、新たに蝦夷地管轄機関として鍋島直正を長官とする「開拓使」を開設。清水谷は開拓次官に格下げされた。箱館戦争の責任者でありながら青森に逃げた清水谷に対する、岩倉の不信があったためとも言われている。
 「開拓使」長官が2カ月ほどで鍋島から東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)に代わると、清水谷は次官の職を辞した。多分、同じ公家出身で手練手管を弄する東久世にはついていけないと悟ったのではないだろうか。この時清水谷は、まだ25歳の若さだった。
 清水谷は26歳で勉学を志し、東京・大阪で学び、さらに岩倉具視一行の洋行に加わりロシアで3年間留学したが、病のため75(明治8)年に帰国。
 82(明治15)年12月、大晦日の日に39歳で短い人生を終えた。高倉新一郎は「公考の歩んだ道こそ真に茨の道だった」と評している

 清水谷および側近が旧幕府軍の進攻に対し早々に逃げを打ったことは先に触れた。同じく旧幕府軍と戦った25歳の若き松前藩藩主、松前徳廣(のりひろ)の場合は一層悲惨であった。
 本拠とする館城(松前)が圧倒的勢力の旧幕府軍に攻め込まれ落城。江差も敵側の手に落ちた。徳廣一行はやむなく夜陰に乗じて漁船で脱出。折からの強風にあおられ、何度も沈没の危機に見舞われながら二日三晩かけて津軽に達する。この間に2歳の鋭子が船中で亡くなり、徳廣も到着後間もなく亡くなる。
 徳廣の妹邦子も同じ漁船に乗っていた。年齢はまだ5歳である。歴史の巡り会わせなのだろうか、邦子はその後清水谷と結婚する。邦子と清水谷が結婚した年は明らかになっていないが、彼が亡くなった年に、邦子はまだ18~19歳だ。2人は満足な結婚生活を全うできなかったであろう。

 「50年に一度」という言葉をこのひと月で何度聞いたことか。集中豪雨とそれによる土砂災害が各地で頻発している。果たして、今後も「50年に一度」なのだろうか。このような自然災害が毎年発生することを懸念している。大量にCO2を撒き散らし、経済発展を優先させている人類の傲慢さに地球が怒っているのではないだろうか。せめて、北海道だけは豊かな緑と豊富な再生可能エネルギー資源で自然を守っていきたいものだ。そうすることが、北海道開拓先覚者達の思いを繋ぐことになるのではないだろうか。
 円山公園の鴨(実際にはオシドリであった)の赤ちゃんは一羽も失われることなく成長し、秋の飛び立ちの準備をしている。来年も成長して帰ってくるように自然を守っていかなければ。
 次回は井上長秋(よしたけ)を掲載する予定です。