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北海道開拓の先覚者達(3)~黒田清隆~更新日:2013年07月01日

    

 北海道神宮でのラジオ体操が終わった後、20名ほどの中高年者が集い、円山登山口の近くで「アメンボ体操」なるものをやっている。大声を張り上げたり、かけ声を上げて肩たたきをし合ったり、周りから見ると異様に映る光景だろう。
 その集っている場所の近くに巨大な「ユリの木」が存在感を誇っている。「ユリの木」は、カナダから米国北東部にかけての地域が原産地で、日本には1875年(明治8年)頃に渡来したとされる。「ユリの木」は木蓮科で米国名は「チューリップの木」と呼ばれているそうだ。花はチューリップやユリに似ており、オレンジ色の可憐な花が咲き誇る。
ただ、円山公園の「ユリの木」はあまりにも大きすぎて、双眼鏡でのぞかなければ花が確認できないほどだ。多分、明治の初期に植えられた樹木なのだろう。
 この「ユリの木」は大通公園7丁目にも数本植えられているが、こちらはほどほどの大きさであり、今が見頃の花は“双眼鏡なし”で楽しめる。
花フェスタが開催されている大通公園7丁目を東に歩んでいくと、西10丁目に威風堂々とした2体の像に出会う。
1870年(明治3年)、樺太開拓史次官として北海道と関係を持ち、1871年(明治4年)に東久世長官が北海道開拓使長官を辞任すると、次官のまま東京にあって開拓史の長となり北海道開拓に向け産業や制度を創設した黒田清隆の銅像である。
もう1体は、米国農務局長の地位にありながら黒田長官に請われ、北海道開拓の基礎となる技術を教えるため来道したホーレス・ケプロンの像である。
いずれも北海道開拓100年を記念して1967年(昭和42年)に建立されている。同じ年に建立された岩村通俊の像が木立に囲まれた円山公園の目立たない場所に建てられているのと比べると、圧倒的に注目を浴びる場所である。

 黒田は鹿児島藩士の子として生まれ、戊辰戦争・函館戦争で西郷隆盛の参謀として活躍した。1871年(明治4年)に北海道開拓使次官、1874年(明治7年)に開拓長官となり、開拓使が1882年(明治15年)に廃止になるまで北方開拓の指揮を執った。そして、開拓使次官在任時に開拓使10年計画を建議し、10年間で総額1000万円(今の時代では数兆円になるのではないだろうか)にのぼる大規模予算による北海道開拓の計画を打ち立て、その計画が承認されるとその実現に向け奔走した。

 アベノミクスの「第三の矢」である「成長戦略」は発表されると同時に、期待外れとして市場から株価暴落と円高の猛反発を受けたが、黒田の「北方経営の大方針」は140年前に「第三の矢」を超える規模と方向性を打ち出している。
 アベノミクスの成長戦略では、まず「雇用の拡大と女性の活躍の場の拡大」を謳っているが、黒田は「開拓事業はただ男だけでできるものではない」と、積極的な女性活用を打ち出した。欧米への視察から女子教育の盛んなことを学び、1871年(明治4年)には女子5名を海外留学させている。この中には津田塾を開設した津田梅子も含まれている。
 また、1875年(明治8年)に札幌農学校を開設したが、その準備として1872年(明治5年)には東京に仮学舎を設営した。この学舎には女学校も設け、卒業後に北海道在籍者に嫁ぐことを条件として女子学生達に官費教育を提供している。まさに、婚活のはしりであろう。
 「留学生を選んで海外諸国の事情を研究せしむべき事」と建議し、自らも米国に赴いた。当時のグラント米国大統領とも面会し、北米合衆国農務局長であったホーレス・ケプロンを北海道開拓の技術顧問として招く事の了解を取り付けた。当時ケプロンは66才。35才の黒田の懇請を受け入れたのも黒田の人物像に惚れ込んだからではないだろうか。ケプロンと10年計画を立案すると共に、クラーク、ライマン、ダン、クロフォードなど多くの外国人を招いた。
「ガラパゴス製品」、「原子力村」、「海外留学生の減少」など、ここのところ日本では内向きで孤立した動きが目立ち、国際競争力では24位に落ち込んでいる。一方において、近代化に懸命に歩んだ明治の人達の「海外に学び」「海外に飛躍する」という気概が黒田の行動から伝わってくる。

 農業の面では、黒田は米国を中心にあらゆる国の優れた技術を採用した。種子・苗木・家畜はまず東京で試験導入し、その後北海道の官営農場で栽培したうえ、農家に分与し、農具・機械は海外輸入と同時に札幌でも製造し、農民に分け与え操作指導も施した。
 北海道で採れた農作物を地産地消することを奨励すると共に、その製造にも力を入れた。小麦粉、玉葱粉の食用化をはかり、さらには農作物の商的流通が緊要であると指摘し、その物流網を構築した。1880年(明治13年)には日本で3番目となる鉄道が小樽~札幌間に開通している。また、多くの工場を誘致し、産業振興に努め、ビール会社、水産物の缶詰工場などが次々と誕生した。今、6次産業などと、あたかも新たな戦略産業であるかのように喧伝されているが、明治のこの時期、すでに生産から製造・物流までの一貫した産業構造が創られていたのだ。
 ケプロンの指導もあり、ロシアからの脅威に対峙すると共に、北海道での大規模農業を奨励する目的で屯田兵制度を敷き、1500戸6000人の移住を計画した。1875年(明治8年)には琴似に200戸、山鼻に300戸が開拓の先兵として移住している。移住者には土地、旅費、当座の費用、住居が提供された。まさに、攻めの農業が行われたのである。

 寒冷地に適する暖房や住宅にも心配りし、ロシアの住宅が断熱に効果的であることを知り、丸太造りの住宅を奨励した。今のログハウスであろう。北海道の豊かな森林資源の活用が当時から進められていた。現在、日本では70%も輸入木材に依存している状況であるが、いかにも不合理であり、北海道の木材ならびにバイオマスの活用にさらなる努力が求められよう。

アベノミクス成長戦略では、エネルギー政策として温暖化ガス排出25%削減の目標撤回、石炭火力発電所の建設・原発再稼働、ならびに再生可能エネルギーの普及を謳っている。どうもおかしい。
黒田は詳細な三角測量を行った上で精密な地図を作成し、地質調査も行って地下資源の科学的調査を行った。その結果、空知の大炭田が発見されている。これが、日本のエネルギー源として第二次大戦後まで日本を支えてきた。
 北海道には膨大な地下資源や再生可能エネルギーが賦存している。勇払原野のガス田が枯渇しそうだ、ということでロシアなどからの輸入が計画されている。しかし、勇払原野から伸びているガス田は、北は利尻・礼文まで、東はオホーツク海沿岸まで続いている可能性がある。この調査はどれだけ詳細に行われているのだろうか。原発56基に相当する風力発電の賦存量が北海道の地上と洋上にあるが、多くの制約(送配電網、アセスメント)でその実用化はほとんど進んでいない。今、黒田がいたならばどうするだろうか。

黒田は、北海道開拓長官を辞めた後も、北海道のことを忘れず、1882年(明治15年)には札幌を「北京(北の都)」として離宮を置き、皇族・華族はこの地に移ってこの地を開くべきと建白している。今で言う首都機能の移転である。
 地震・津波・台風などの自然災害リスクが日本の他都市に比べ極端に低いのが北海道であり、札幌である。南海トラフ地震に対応するため、首都機能の移転が論議されている。仙台、名古屋、大阪、福岡が積極的に誘致活動を行っているが、札幌こそ最適な地であることは論を待たない。さらに、大手企業の一部機能の移転も必要になってこよう。北海道や札幌市はその誘致活動にどれほどの力を入れているのだろうか。その姿が良く見えないのは残念である。黒田の先見性と大胆な発想が今こそ北海道にとって必要なのではないだろうか。

 次回は、黒田清隆と榎本武揚との関係について記載したい。