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北海道開拓の先覚者達(29)~松川弁之助~更新日:2014年08月01日

    

 函館戦争で榎本武揚を支え、函館市中取締頭取として果敢に幕府軍と戦ったのが土方歳三。土方の生き方は今も日本人の心の中に生き続けている。
 1869(明治2)年5月11日、幕府軍の総攻撃の情報を聞いた土方は50人ほどを率い、敵軍に包囲されて弁天台場に引きこもる仲間を救出すべく五稜郭本陣を出た。彼我の戦力の差はあまりにも大きく、土方は戦死を覚悟しての出陣だった。土方は弁天台場にたどり着くことはできず、途中の一本木関門(今の函館駅の近く)で壮絶な最期を遂げた。
 五稜郭から土方最期の地・一本木関門までは「松川街道」と呼ばれていた。この道は五稜郭建造の際、港から工事資材を運ぶためのもので、施工を担当したのが今回の主人公である松川弁之助。松川は私費を投入して工事を請け負った。函館奉行所はその褒賞として道路に沿った土地を彼に与えた。その地は松川町として今も残っている。また、「松川街道」の大部分は今の高砂通りである。
 では、松川とはどのような人物だったのだろうか。

 松川は1802(享和2)年に越後の国で生まれる。家は代々、付近の7カ村を統率する大庄屋であった。松川は父の資質を受け継ぎ、質素倹約を旨とし、学問に励み、また弓術にも優れていたと伝えられている。父は蝦夷地への強い思いを持っており、松川もかの地への注意は怠らず、機会があったら蝦夷地開拓を率先して実践しようと思い描いていた。
 父が病気になると、好きな煙草をやめて(私としては少々心苦しいが)日夜病床に付添い看病したといわれる。松川は6番目の子であったが兄たちが早逝したため、42歳で父の後を継いで大庄屋となった。
公務のかたわら農事の改良に力を注ぎ、公平不遍、弱きを助け、大庄屋としての胆力を蓄え、村人の先頭に立ち、朝は4時に起き夜は12時に寝て、郷土のために働いたという。

 1807年(文化4)年、松前藩は奥州に国替えされ、幕府は蝦夷地全域の直轄を決定する。松浦武四郎が東蝦夷地・箱館・松前を調査したのは1845年である。幕府による北方防備と蝦夷地開拓が勢いを増す時期、若いころからの蝦夷地への思いを「今こそ実現する時が来た」と松川は奮い立った。
 50(嘉永3)年、息子の和三郎を蝦夷地に行かせ、地理や風土を調査させている。そして、領主の柳沢弾正に蝦夷地開拓の願書を提出し、幕府もその願いを許可した。
 蝦夷地への出発準備に追われる中、失火で家屋・倉庫が全焼する事態となったが、松川は少しも騒がず1856(安政3)年3月、勇躍箱館に向かった。箱館に入ると御用地の開墾、谷地(湿地帯)の排水や溜池による新田の開発、糞尿処理による肥料の施しなど、次々と開発を進めていった。函館奉行所が開設されたのは松川が箱館に移住する2年前(1854年)であり、奉行所も彼の功を高く賞し援助を惜しまなかった。

 松川が最も力を尽くしたのは、五稜郭の土塁築造と弁天砲台の建設である。1854年に日米和親条約、続いて翌年に日露通好条約が締結。箱館が開港すると外国船の出入りも多くなり、ロシアの南進に対する警戒から防備を強化する必要性に迫られた。その対策として総力を挙げて取り組んだのが弁天島の砲台設置と五稜郭の建造である。
 五稜郭は函館奉行の意見具申により徳川家定が築城を命じた。総面積約7万5000坪。ヨーロッパの築城方式を採用している。当時日本で建造された星型の城郭は総じて「五稜郭」と呼ばれたが、なんといっても「五稜郭」といえば函館のものである。設計者は洋式軍学者の武田斐三郎(あやさぶろう)で、松川は土塁工事の施工を任された。1854年の工事開始であるから、松川が箱館に来てからわずか2年後。この短い間でいかに彼が奉行の厚い信任を得ていたのか、また彼の手腕がいかに優れていたのかがうかがえる。

 1868(明治元)年、旧幕府軍が箱館に入り土方歳三らが五稜郭を占拠。その年の末には榎本武揚が総督として箱館政権が誕生する。しかし、翌年には新政府軍との激しい戦いで榎本・土方らの旧幕府軍は破れ、その年から開拓使による北海道開拓が本格的に開始される。
 一方、弁天台場は弁天砲台とも呼ばれ、五稜郭着工の2年後の1856(安政3)年に工事が開始。8年間かけて建造された。総面積約1万2000坪、周囲700メートルの不等辺六角形で、将棋の駒のような形状であった。台場には15門の砲台が装備され、箱館港の防衛拠点となった。設計者は五稜郭と同じ武田斐三郎で、松川は工事を請負い、松川が推挙した石工の井上喜三郎が砲台の建造にあたった。
 箱館戦争で、新撰組が中心となった旧幕府軍はこの台場に立てこもって奮闘したが、箱館市内が新政府軍によって占領されたため台場は孤立し、結局五稜郭に先立って降伏せざるを得なかった。弁天台場は1897(明治30)年ごろに取り壊され、現在は「函館どっく」前にその碑が建っている。

 松川が次に開拓者としての熱い情熱を燃やしたのが樺太である。1855年、日露通好条約が締結されるが、この条約では樺太の国境は定められておらず、いわば樺太の開拓と領地は早い者勝ちである。ロシアは53(嘉永6)年に樺太南部クシュンコタンに兵を上陸させ、日本にその占領を認めさせようとしていた。さらに、58(安政4)年にはクシュンナイ(久春内)に、さらにマアヌイ(真縫)へと兵を進出させた。
 箱館奉行はこれに対抗すべく秋田藩兵を中心に樺太の要所に派遣したが、領土を主張するためには日本による奥地開発の実績が必要だった。奉行は松川にその任務を依頼した。松川は箱館の工事で多忙であったため、親戚の1人に現地調査を命じるとともに、別の親戚に知床を経由して樺太に至る航路を開発させた。樺太で試験的に鱒漁を試み数百石の漁獲をあげている。この成果で樺太での漁業の見通しを立て、本格的に事業を開始すべく50人をクシュンナイで越年させ準備させた。これがその後の松川の没落の始まりになるとは思いもよらなかっただろう。翌年の春までに、越年させた者たちの半数が壊血病などで亡くなるという惨事が松川を襲った。
 亡くなった者たちを丁重に弔った後、予定通り魚場は設置されたものの、物資補給の運搬船の到着が遅れ、漁獲の時期を失ってしまった。1860(安政6)年、準備のため松川は幕府より1万両もの大金を借用せざるを得なかった。しかしその年も準備の遅れで漁獲期を逃し、その後の2年間も予定した漁獲量を下回った。さらに悪いことは続くもので、漁師の病死が相次ぎ、難破船も多く、負債が重なって成功の目処はまったく立たなくなった。
 松川は、箱館の新事業で得た資金や土地はもちろん、先祖伝来の資産もつぎ込んで事業を続けたが、ついに力尽きて奉行に差配御免(任務を解く)を願い出る。松川はすべてを失い、悲嘆のうちに越後の故郷に戻ることになった。

 「北の先覚」の著者・高倉新一郎は「高田屋嘉兵衛が成功し松川が失敗したのはその技量の違いのためと思われる。高田屋は船乗りを業として優秀な技術を持って自らの船を自由に運航し、産業経営にも訓練されていた。一方、松川は豪農の出で資金もあり人を使用することもできたが、自ら航海の経験がなく、よい船頭が得られなかったためと思われる」と、評している。
 1875(明治8)年、黒田清隆の全権を得た駐ロシア大使榎本武揚は「樺太千島交換条約」に調印した。松川がすべての情熱と資財を注いだ樺太の地は日本の手から離れてしまったのだ。故郷で病床に伏していた松川はこの報を聞いて、「かくなったのは自分の罪だ」と、嘆き悲しみ続けたという。「もし自分の事業が成功していたら、このようなことにはなっていなかった」という思いがこみ上げてきたのだろう。
 条約調印の翌年、松川弁之助は75歳で数奇な人生を終えることになる。

 夏休みが始まり、毎朝の北海道神宮ラジオ体操の会には、200人近い小学生が元気な姿を見せている。少子化の時代にこんなにも多くの子どもたちがいたのかと、妙に元気づけられる。ご褒美の品を受け取る子どもたちの笑顔は実に心温まるものだ。
 少々時期外れなのだろうが、7月末になって鴨の赤ちゃん10羽が元気に誕生し、見たものの心を和らげてくれる。6月初めに生まれた8羽の赤ちゃん鴨は5羽が亡くなり寂しくなっていたが、これで円山公園の池も賑わいを取り戻しすだろう。

 8月15日号はお盆休暇のためお休みとし、次回は9月1日とします。