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北海道開拓の先覚者達(26)~依田勉三(下)~更新日:2014年06月15日

    

 前号で「晩成社」の概要、及びそれを率いた依田勉三と同志について、「帯広百年記念館」に掲載されている資料を中心にまとめた。今回は、なぜ「晩成社」は失敗の連続だったかという観点から歴史を読み直してみたい。
 依田は1853年(嘉永6年)、豪商の3男として今の静岡県賀茂郡中川村字大沢に生まれた。生まれる1カ月前にはペリーが浦賀に入港しており、我が国の歴史における一大転換期であった。22歳で慶應義塾に入学するが2年で退学し、アイルランド人の宣教師ワッデルの塾に入り英語を学ぶ。この時、同塾で渡辺勝と知り合い、さらにその後、渡辺の紹介で鈴木と知り合って同志の関係を結んでいく。2人とも宣教師を目指していた人物である。

 依田は79年に従妹のリクと結婚した頃から北海道開拓に着眼し、81年に単身北海道に渡り現地を調査。翌年、家族や友人の賛同を得る。同年、北海道に1万町歩(3000万坪)の未開地無償払い下げを受け、これを15年で開墾する目的で「晩成社」を設立した。翌年「晩成社規則」を作成するが、その序文には「北海道の要否は、我国の形成上重要の関係あるところなれば、国民の義務としてその責任を担当せざるべからず」と記載している。この設立趣意書をもって、依田と同志たちは資金調達と移住する農民の募集に取りかかった。しかし、この時点で1万町歩もの土地が無償提供された事実はない。「晩成社」が帯広に入植した時点では無願開墾(無許可入植)だった。最初100万坪を願い出たが札幌県はこれを認めず、ついで50万坪に減らして申請したがこれも却下。ようやく認められたのが入植2年後の85年で、わずか15万坪(50町歩)、当初計画の0.5%である。
 出資金は5万円(87年の1円が今の3800円程度であったので、2億円以上)と決めたが出資者が不足し、依田一族が大部分を負担せざるを得なかった。小作人の募集にも難儀した。「何も北海道に行って開拓の苦労をする必要はない」との反応で、依田の村からは一人も応ぜず、隣の6村から13戸27人が移住を決めることになった。
当初の計画自体が大風呂敷であったといわざるを得ない。移住した耕作民は比較的温暖な伊豆の農業しか知らず、幹部の依田、渡辺、鈴木のいずれも志は壮大であったが農業の実態を知らない者ばかりだった。
 開拓初年度、悲惨な現実が移住者を待っていた。春から秋にかけて旱魃が続き、種子は発芽しにくく生育が遅れた。伊豆から持参した種子は寒冷地には適さず全滅。トノサマバッタ(イナゴ)の襲来でやっと生育した作物は食い荒らされる。風土病のオコリに住民は悩まされ、9月には霜が下りて10月には初雪が降り、作物は成熟することはなかった。
 生活をいっそう困難にしたのが十勝の内陸に道路が通じていなかったことである。依田は札幌県令に「道路開削願」を提出したが、聞き入れられることはなかった。当時の現状としては十勝の開発まで手が回らなかったのである。もちろん、それを承知で「晩成社」は「無願開墾」したのであり、札幌県令を責めるわけにはいかない。気候や自然災害に対する十分な調査がなく、予想される開拓の困難さに対する準備不足が開拓初年度から露呈したのである。
 このような中、小作人から「募集のときの話と現実がかけ離れている」という不満の声が上がり始め、3人が故郷に帰ることになった。移住初年度から開拓の足並みが乱れ始めたのだ。
 3年目、夏の長雨で農作物の収穫は依然として皆無の状況で、食えるものはすべて食う毎日が続いた。それは家畜の餌にも等しかった。渡辺勝が「落ちぶれた極度か豚と一つ鍋」と詠んだのに対し、依田は「開墾の始めは豚と一つ鍋」と返したという有名な話がある。依田はどこまでも強気な姿勢を保ったが、移住民の動揺を抑えることはできなかった。

 前回「同志鈴木銃太郎が1887年(明治20年)、固い決意で提案した会社への改革案が認められず、幹事を辞し渡辺らと西士狩村の開墾に専心しました」と書いたが、その改革案とはどのようなものだったのだろうか。
 87年、大株主である依田の兄・佐二平が十勝に来た際、鈴木は建白書を提出した。それは「晩成社」の規則改定に関するものだ。規則(社則)では「小作人は収穫品の10分の2」を、「借入金の利子につき100円に対し15円(15%)」を「晩成社」に支払うとなっているが、これは小作人(移住者)にとってあまりにも厳しいもので、これでは自作農として自立できない。さらに「無願開墾」であり、その移住費用は国からも札幌県令からも支給されず移住民は旅費や当初の生活費・準備金を「晩成社」から借金して参加している。この利子は膨れ上がってきていた。集団移植してから5年になるにも関わらず、目標としていた15年で1万町歩の開発計画もわずか30町歩しか開拓できていない。「なぜ牛馬のように働いている小作人の辛抱不足を責め、指導者の注意不足を反省しないのか。」鈴木は依田や佐二平に熱心に訴えた。しかし受け入れられず、渡辺勝とともに「晩成社」を辞職することを決意した。
移住農民は動揺し帰国を希望するものが相次ぎ、壮大な夢と理想の基に結ばれた「晩成社」は早くも壊滅の危機に陥った。

 クリスチャンである鈴木は同じく信徒の渡辺勝・カネ(鈴木の妹)とともにアイヌの人たちと親交を結び、彼らに農業を指導したことでも知られている。「晩成社」が入植した年、札幌県は十勝川での鮭の捕獲を禁止し監視人を置いて漁獲を厳しく取り締まった。これで困窮に陥ったのがアイヌの人達で、前年の大雪で鹿もほぼ全滅し狩猟民族の彼らの食料は途絶した。木の皮をむいて食べるしか生き抜いていけなかった。鈴木と渡辺は帯広を訪れた札幌県庁の役人に「アイヌ民族に農業を指導し彼等の窮状を救うべき」と切々と訴えた。二人の進言により「アイヌ民族給与地」制度ができ、彼等の開墾の糸口が開かれたのだ。(ちなみに鈴木銃太郎の奥さんはアイヌ民族の方である。)

 さて、同志や小作人を次々失った勉三は畑作を切り上げ、思い切って当時奨励されていた牧場経営に転換する。87年、生花苗(おいかまなえ:今の大樹町)に1万ヘクタールの土地を得て、牛馬牧場の経営を始める。牛は順調に増えたが困ったのは販路である。まとまった集落のない十勝では消化しきれなかった。販路開拓のため、会社を「晩成合資会社」と改め、函館に移って丸成(丸の中に晩成社の成の字)肉店を開業した。しかし、牛は十勝から運ぶので日数と費用がかかり、南部の牛に対抗できず数年で店を閉めた。
 次に取り組んだのが乳牛事業で、バターの生産を始めた。六花亭のマルセイバターの名前はこれからきている。評判は良かったが、今回も十勝からの運送にコストがかかり収支が伴わず、練乳(牛乳を煮詰めて凝縮)に切り替える。しかし、技術が未熟で外国製品に押されて成功しなかった。

以下、依田が先駆的に取り組んだが結果として失敗に終わったその他の事業について時系列に見てみる。なんと多彩だったのかと驚かされる。
1886年:馬鈴薯澱粉工場を設立するが成功せず。
1887年:養蚕を始めるが途中で投げ出す。
1888年:りんご栽培を始め、製藍所も建設するがともに成功せず。
1889年:ビートを試作、大豆や菜豆が十勝に有利であることを確証。乾牧草の不足でオイカマナイ(生花苗)の家畜は餓死続出。
1892年:大津・帯広間道路が開通し十勝は急速に開け、馬の需要が急増。牧場の整備拡張に努めたが、ウサギ・ネズミの害で牧草全滅。
1893年:木工所の設立も商売にならず。
1895年:日清戦争でロープやズックの需要が高まり亜麻の栽培に着手。
 しかし、戦争が終わると価格も下がり工場も洪水に遭い失敗。
1906年:薄板の製造もうまくいかなかった。
1909年:シイタケの栽培も明治43年の野火で全滅。
1911年:イグサを栽培し網笠・畳表を製造したがこれも失敗。牛肉の大和煮、牛味噌の製造も流通・販売に窮し失敗。
 これらの事業は十勝のみならず北海道でも先駆的であったが、水田を除いていずれも長続きしなかった。1916年、伊豆で開かれた「晩成社」の総会では依田家の3人を除く全社員(投資者)が退社した。事実上の解散で、帯広地域の農場を手放さなければならなかった。
 元北大名誉教授の高倉新一郎は「依田は理想家で着眼点があまりにも早すぎ、事業成立の基礎ができていない先に、いろいろ試み、条件が熟し始めた頃に事業を止めてしまうという有様だ。その後、同じ事業が成功している例もある。一度試みてもこれを守り育てる粘り強さがなかった」と評している。
 半面、その後に続く者はその先駆的な試みに目を開かされ、その失敗に用心しつつ成功させていったともいえるだろう。

 帯広市史には「十勝の産業の源流を探るなら、そのほとんどが晩成社に発していることを見い出すに違いない。会社の事業としては失敗に帰したとはいえ、後進者に指標を示した役割は、極めて重要である」と記している。一方、十勝地方史研究所所長で依田勉三研究家である井上壽(ひさし)氏は、「これは考え違いではないのか。現地の最高責任者として事業を推進したのであれば、多少の失敗はあっても最終的に利益を出して配当をしなければ会社設立の意味はない。募集した移民たちは自作農になることはできなかったばかりか、早々に逃げ帰ってしまった小作人も多い。それが果たして後進者の指標となるであろうか」と、苦言を呈している。

 いずれにしても、1883年に入植してから1925年にこの世を去るまで42年にもわたって、十勝の地で失敗に次ぐ失敗を重ねたにもかかわらず、前向きに新たな事業に取り組んでいった姿勢には感服させられる。

 6月15日は小樽運河ロードレースがあり10キロを走ることになっている。私も、負けても負けても挑戦しなければ。

 次回は屯田兵の育ての親といわれる永山武四郎を取り上げたい。