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北海道開拓の先覚者達(25)~依田勉三(上)~更新日:2014年06月01日

    

 折からの強風で雲が流れ、真っ青な空が広がっている十勝の大地。帯広神社のすぐ近く、その青空を背景に1体の銅像が十勝平野を見下ろしている。その姿は背広の上から蓑笠を着て、鍬(くわ)を杖代わりにし、背中にはテンガロンハットのように大きな麦藁帽子がぶら下がっているといったもの。
 そばの立て看板には「依田勉三は、伊豆松崎で結成した晩成社の同志13戸27名を率いて明治16年(1883年)5月に帯広に入植しました。それ以来、過酷な状況にもめげず開拓に励み、今日の帯広・十勝発展の基礎を築きました」と記されている。

 5月某日、十勝開拓の“農聖”と呼ばれ、北海道開拓神社にもまつられている依田勉三の足跡を辿るべく十勝を訪れた。冒頭の銅像は、当初1941年6月に建立されたが戦時中の金属応収で没収され、52年7月に再建されたものである。
 台座には「君の十勝開拓に志すや終始一貫堂々としてたゆまず、あらゆる困苦欠乏に耐え、初志の貫徹に邁進すること四十有余年。今日十勝平野開発の基礎を確立せるは洵(まこと)に敬仰に絶えず。今や食料の生産確保に益々飛躍進展を希求せらるる時代に際し、君が本道開拓の先覚としての偉業を偲び、その功績を永く後世につたえんがため・・・・」という、建立当時の農林臣による顕彰の辞が刻まれている。
 銅像の異様な姿は、依田が1920年(入植の37年後)、途別(札内)に耕作した水田がようやく実り、その初穂をそばに記念撮影した時の姿だ。依田が十勝の開拓でわずかに成功したのはこの水田だけであり、それ以外の20ほどの事業はことごとく失敗に終わっている。25年12月、73歳で生涯を閉じたとき、彼の手に最後に残ったのは帯広の住まいだけだった。依田は死の間際に「晩成社には何も残らん。しかし十勝野には・・・」と述懐したという。

 依田が晩成社を率いて入植した1883年を帯広市発祥の年として、1982年10月に「帯広百年記念館」が建設された。記念館は同市緑ヶ丘地区にあり、依田と晩成社の足跡が多くの写真や資料を通じて紹介されている。今回はこれらの資料や説明用パネルを紹介しながら、依田と晩成社についてその概要をお伝えしたい。
 “十勝の開拓と晩成社”と題されたパネルには「明治になると、十勝地方は交通の要所で漁業が盛んだった海岸地域から発展し、やがて鹿を狙う漁師や商人が増えました。さらに1880年(明治13年)には、トノサマバッタが大発生し、その調査が行われる中、十勝の内陸部が農耕・牧畜に有益なことがわかってきました。こうした状況を背景に、1883年(明治16年)、民間開拓団体晩成社が十勝内陸に初めて集団入植しました。当時、内陸には道路もなく、生産物の流通どころか自給自足さえも困難な状態で、日々の生活は苦難の連続でした。しかし、必死の努力を続けて十勝開拓の先駆的役割を果たしました」と書かれている。

 “晩成社の事業の展開”では「オベリベリ(現在の帯広)入地後の開拓では、野火や気象災害、トノサマバッタの被害、風土病(おこり)などの障害が連続的に発生しました。そのため、社内には不平や不満があふれて逃げ出す者が続出し、30ヘクタールの原野開拓に10年の歳月を要しました。その後会社は、規約を改正し農牧場の開設、製粉や製麻、乳製品の加工販売や木工所など、新事業を起こして必死の再起を試みました。しかし、1920年(大正9年)に成功を祝して同士と喜び合った途別(札内)水田事業以外ではほとんど成果を挙げることは出来ませんでした。」というパネルがあった。

 “晩成社の終幕”のパネルには「オベリベリやオイカマナイ(生花苗:今の大樹町)さらに途別で展開した農業、牧畜、乳製品の加工販売等の諸事業は様々な災害に加え、交通網の不備や販売不振が原因で利益より損失が多く、大半が失敗の連続でした。やがて多額の借金整理のために、苦労の末築き上げた開墾地や諸施設を売り払い、全てが「無になる」という厳しい結果で終わりました。そして1932年(昭和7年)、松崎町(伊豆の依田家)において、十勝の開拓に全力を傾けた晩成社50年の苦闘と努力の歴史を偲びながら、依田家子孫の手により満期解散の手続きが取られました。」とある。

 依田については、同館での説明によると「伊豆国(静岡県)大沢村出身の勉三は、恵まれた環境のもと三余塾、慶応義塾、ワッデル塾で学問を修め、北海道開拓の意思を心に抱きました。1881年(明治14年)、単身で北海道の様子を視察した勉三は、その翌年に鈴木銃太郎と共に十勝に赴き、晩成社の開墾予定地をオベリベリと決定しました。入植後は晩成社を率いてあらゆる困難に立ち向かい、多くの厳しい批判や度重なる失敗にもくじけず、常に自分の信念に基づいて行動しました。こうした勉三の業績は、帯広市や大樹町開拓の先駆者として現在でも語り継がれています。」とのこと。

 依田が、同志として十勝開拓の苦労をともにしたのが渡辺勝と鈴木銃太郎。3人は横浜のスコットランド人医師ワッテルの英語塾を通して知り合った。渡辺と鈴木については、以下のように紹介されている。
 まず渡辺は「優れた才能とたくましい開拓精神を発揮し、忍耐強く仕事に励んで活躍しました。1886年(明治19年)、鈴木銃太郎や高橋利八らと士狩村開墾に着手後、1883年(明治26年)から然別村に定住して開墾や牧場経営に専念し、地域の発展に尽くして音更町開拓の先駆者となりました。横浜の共立女学校出身の妻カネ(銃太郎の妹)は深い教養を身につけ、常に困難を克服する強い意思と行動力で、開墾から養育、家事など一切の仕事をこなしました。さらに移住者の子弟などを自宅に集めて熱心に基礎教育の指導をおこないました。」
 一方、鈴木は「渡辺勝を通して依田勉三と知り合いました。1882年(明治15年)にはオベリベリを入植地に決定後、現地に一人残って開墾や作物を試作しながら自然の厳しさに耐えて越冬し、入植準備の役割を果たしました。とくに、アイヌの人とは親密に交際して信頼されました。1887年(明治20年)、固い決意で提案した会社への改革案が認められず、幹事を辞して渡辺勝等と西士狩村の開墾に専心しました。ここで農牧場を開設しながら新しい移住者の受け入れや指導に努力し、地域に尽くして芽室町開拓の創始者となりました。」と説明されている。
 ここでふと疑問が湧いてきた。ほかの開拓者たちがそれなりの成果を収めているのに、なぜ依田だけ失敗に継ぐ失敗を重ねたのだろうか。
 記念館で入手した井上壽(ひさし)十勝地方史研究所所長の著書「依田勉三と晩成社」および高倉新一郎氏の著書「北の先覚」を参照しながら、次号で詳しく記載していきたい。

 百年記念館を訪れた後、依田の住居跡の史跡があるということで、大樹町まで足を伸ばした。インターネットで住所を調べると広尾郡大樹町晩成とある。近くまで行けばわかるだろうと気軽に帯広を出発したのが大間違い。今回のドライブで、十勝がなんと広い場所であるかを実体験させられた。途中、民家を訪れ場所を尋ねようとしたが、その民家がなかなか見つからない。ようやく尋ねることができたが、指示通りに運転してもなかなか行き着けない。我々の感覚での10キロが、多分十勝の人にとっては1キロぐらいなのだろう。ようやくその付近と思われる牧場の方にお聞きしたが、そのとおりに行っても標識が見つからない。当日は強風が吹き荒れており、風に吹き倒された木々があちこちで道路の半分を塞いでいた。猛烈な横風でハンドルも取られそうになった。強風で標識が吹き飛んでしまっていたのだ。
 苦労の末に「晩成社史跡」に到着。そこには1989年に復元された依田の住居があった。窓からのぞくと、居間と土間、風呂場と物置の間取りで、飼料不足で死なせてしまった飼い牛をまつった「祭牛之霊碑」があり、「ふみまなぶ 学び子らがうえおこし 園生のもみじ にほいそめけり」と詠んだ歌がある。
 また、近くには「ますらおが 心定めし 北の海 風吹かばふけ 浪立たばたて」と書かれた依田の歌碑が丸太に刻まれ立てられている。彼の心意気が感じられる詩である。

 次回は依田勉三(下)をお届けしたい。