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北海道開拓の先覚者達(23)~村山伝兵衛~更新日:2014年05月01日

    

 真っ青な海から押し寄せる波が絶壁にぶつかり、白波が高く上がりしぶきが飛び散っていた。もう7、8年前になるだろうか、姉弟家族ともども「先祖の地」能登半島を訪れたことがある。先祖の地は能登湾に面し、かつては漁業と北前船の交易で栄えたところと聞かされた。能登の国からは多くの開拓者が北海道に移住しており、私の祖父もその1人だ。
 さて今回は、能登半島の阿部屋(あぶや:現在の石川県志賀町阿部屋)から松前に移住して巨万の富を築き、西の横綱・鴻池善右衛門と並び称された村山伝兵衛について調べてみた。
 初代村山伝兵衛は能登半島の生まれで、松前藩船頭の娘の養子として18歳で松前に移住した。阿部屋(あぶや)の称号で回漕業を営み、事業を順調に拡大。1750~53年には宗谷・留萌の2場所を請け負い、アイヌの人たちに漁業を教えて漁獲高はどんどん増えていった。増毛町のホームページには「1751年、松前の商人村山伝兵衛が増毛場所を請け負い、この地に出張番屋を設け交易が始まりました。これが増毛の地に和人が定住した始まりです」と紹介されている。私の出身地、留萌の礎を築いたのも村山だったのだろう。
 村山家で最も活躍したのは3代目村山伝兵衛で、38年に生まれている。松前で基礎を固めた祖父の事業を受け継ぎ、藩吏や幕吏たちの信用を高めていった。22歳の時には問屋株を手に入れ、松前に出入りする多くの船から積荷に対する問屋口銭を得て富を蓄える。1年で500両から1000両もの口銭を手に入れるほどだった。
 75年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請け負ったと知ると、その場所を借り受け、鰊・鮭・鱒などの漁業を興す。この頃から、他の漁場を金にあかせて手に入れ、独占的な場所請負人として村山家の全盛時代を築く。
 ここで、場所請負制度についておさらいしておこう。蝦夷地は当時、米をつくることができなかったので、松前藩は石高の代わりに「商い場」を藩士へ与えた。しかし武士の商法では場所を適切に管理することができず、それを商人に与え、彼らから運上金を上納させた。村山家は地元の運上屋であり、藩士との関係もうまくいっていたのだろう。

 さて、89年にクナシリ・メナシの戦いが勃発する。アイヌの蜂起は酋長たちのとりなしで収束し、首謀者とみなされた32人のアイヌ人の首がはねられる。この事件は幕府の知るところとなり、場所請負を任されていた飛騨屋のアイヌに対する非業な仕打ちが背景にあるとされ、飛騨屋は厚岸・霧多布・国後・宗谷の4場所すべてを没収された。
 好機到来と、すぐさま行動に移したのが3代目村山伝兵衛である。村山は飛騨屋の請け負い場所を借り受け事実上支配していたので、アイヌに対する仕打ちと無関係であったとは思えないが、すぐさま飛騨屋の番人たちを残らず引き払わせた。飛騨屋との関係を絶ち切ったのである。
 村山の思惑通り、松前藩は飛騨屋に代わって村山にこれらの地を管轄するよう命じた。松前藩は当時、飛騨屋からの莫大な借金を背負っていたので、飛騨屋を切ることは願ったりかなったりだったと思われる。
 村山は、任された場所に物資を輸送するなど早急に手を打たなければならなかった。下命直後、季節は秋。海は波が荒く、船での資材運搬は難しかった。そのため、村山は自分の請け負い場所である石狩・小樽・増毛の使用人やアイヌを総動員し、宗谷・厚岸へ陸路で塩・米そのほか諸物資を運んだ。翌年には旧飛騨屋管轄の各場所に多くの雇い人・漁具などを送り、アイヌを撫育しながら各地に漁場を開いていった。クナシリ・メナシの戦いにおびえ、隠れていたアイヌの人々も次第に漁場に戻り、生産は急激に増加していく。
 村山の勢いは止まるところを知らず、その請け負い場所は35カ所に増え、福山本店に倉庫数十棟、持ち船120隻を有するまでに拡大。やがて松前第一の豪商として日本長者番付に載るまでになった。松前藩への運上金は1年に2500両(1万石)に達したといわれる。

 しかし好事魔多し。破竹の勢いは突然の不運によって失われる。1792年、松前地方を襲った大暴風により、村山の持ち船22隻が荷物を載せたまま沈没した。これが村山家没落の引き金となった。
 このころから、独占的なやり方が多くの人たちの羨望と嫉妬を受け、江差の漁民が騒動を起こし村山追放の願いを藩に出すに至った。
村山の強引な事業のやり方に問題があったのは確かだろうが、この騒動の裏には村山を陥れようとする面々がうごめいていた。その中心にいたのが松前藩8代藩主の松前道廣である。
 松前は幕府より27歳の若さで隠居させられていた。クナシリ・メナシの戦いの原因となったアイヌへの非業な扱いを看過していた点、南下するロシアへの防備を怠っていた点がその理由である。松前は歴代藩主の中では傑物とされ、隠居した後も藩に対し隠然たる力を持っていたが、放縦・傲慢で品行が修まらない性格だったといわれている。
 松前は吉原の遊女を妾に持つなど多額の遊興費を使い続けたことで、飛騨屋などからの借金がかさみ、藩政は窮乏していた。金を得たい松前。村山を陥れ、その事業をものにしたい商人たち。両者の思惑がくしくも一致した。
 まず大阪の商人が、松前が若いころ妾にしていた女の兄に取り入り「宗谷・斜里・樺太の3場所を自分に任せてくれたら、村山の運上金の3倍を藩に支払う」と伝え、松前はこの企てに乗った。
 次に江戸や南部の商人たちの「増毛・苫前・厚岸・国後・根室の鮭の上納金を村山の2倍から3倍払う」との甘言を松前は聞き入れ、さらに各藩士も村山に請け負わせていた20余カ所に上る場所を取り上げた。
 村山は苦労して開発した場所をことごとく失い、さらに問屋株や藩船「長者丸」も取り上げられ、すべての役職から失職した。その上「蓄えた財産を持って村山が大阪に逃げる」との噂を耳にした松前は家臣の諌めを退け、96年に村山の持つすべての地所・財産の没収を命じた。日本の長者番付にも載った村山は58歳で無一文の身に没落していったのである。

 一方、松前藩は村山の財産を奪い取ったものの、その利益は目先だけのもので、各商人の経営は破たん。松前藩政は混乱と打撃をこうむることになる。さらに99年、幕府は東蝦夷地を松前藩から召し上げ、直接支配することを決意した。この決定は、前年の98年に幕府が派遣した蝦夷地巡見隊の詳細な現地報告が決め手となった。巡見隊には、近藤重蔵、最上徳内など今まで取り上げてきた開拓の先駆者たちが含まれている。
 幕府は失意の内にあった村山を再度起用すべく、宗谷・樺太・斜里の3場所、および留萌・石狩の漁業権を村山家に与えた。しかし、一度打撃を受けた村山は昔の活動を望まず福山に隠居し、1813年に76歳で亡くなる。この年は高田屋嘉兵衛の尽力でロシア艦隊艦長ゴローニンが2年間の幽閉の後、松前から釈放された年でもある。
 松前藩の始祖である松前慶廣は豊臣秀吉や徳川家康に取り入り、アイヌの人たちや和人を労働力とした場所請負制度で富を築いた。しかし8代目の道廣に至りその横暴極まる藩運営が幕府の逆鱗にふれ、東蝦夷地を召し上げられたばかりでなく1807年には西蝦夷地も取り上げられ、松前藩は陸奥の梁川に移封されることになる。

 北の春は突然巡ってくる。ひと月ほど前までは雪が残り最低気温も0度を下回っていたが、4月28日には最高気温が25度まで上昇した。円山公園の池にはオシドリとマガモのつがいが飛来し、間もなく新しい生命が誕生するだろう。公園の梅や桜、さらにはマロニエの蕾もふくらみ、一斉に咲き誇るのを待っている。

 次回は天然痘からアイヌの人たちを救った中川五郎治を取り上げる。