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北海道開拓の先覚者達(20)~東久世通禧(みちとみ)~更新日:2014年03月15日

    

 「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」。高級でカフェインの強いお茶の上喜撰と蒸気船を、また茶碗4杯と軍艦4隻(4はい)をかけており、いかにも江戸っ子らしい言い回しである。
 1853年、浦賀沖に黒船が現れると日本中が大騒ぎになった。何せ珍しもの好きの江戸っ子、浦賀はあたかも観光地のように賑わったとのことである。ペリー来航のこの年から、新政府が誕生する68年(明治元年)までは幕末と呼ばれ、262年間続いた鎖国から開国に向かっての激動の時期である。
 ペリーは即刻開国を要求したが、将軍の徳川家慶は病床に伏しており、1年後の54年3月31日に日米和親条約が締結、下田と箱館が開港し鎖国状態は終焉を迎える。日米和親条約でハリスが下田に赴任し、日米修好通商条約の締結を強く求めるが、頑迷な攘夷論者である孝明天皇は、条約締結徹底拒否の姿勢を崩さない。
 時の大老井伊直弼は天皇の勅許を得ようとしたが、開国・積極交易派の老中松平忠固(ただかた)の主張で、勅許を待たずに58年(安政5年)に条約が締結される。その後、井伊大老はフランス、イギリスとも通商条約を締結して積極的に開国を目指すが、これがその後の大きな政争を巻き起こす要因となる。
 井伊は反対派を大量に処罰し(安政の大獄)、即時攘夷を求める天皇を屈服させるが、翌60年には桜田門外の変で水戸浪士に暗殺される。
幕府の専断に対抗しようとする勢力は尊皇攘夷論を思想基盤とし、天皇(孝明天皇)を支えようとした。その先頭を切る長州藩は62年「通商条約破棄・対外戦争覚悟」(破的攘夷論)を藩論に採用する。尊皇攘夷急進派は将軍徳川家茂に攘夷実行を確約し、ここに公武合体派の退潮が明らかになった。
これに対して薩摩藩は会津藩と結託し、尊皇攘夷派・長州藩を朝廷から一掃する(8月18日の変)。この変で、孝明天皇を支えて攘夷を主張していた公家7人が長州藩に逃れることになる(七卿の都落ち)。

 さて、この辺りから今回の主役東久世通禧について話を進めていこう。東久世は33年、下級公家の家に生まれる。10歳の頃に童形(どうぎょう)として2歳年上の皇太子、統仁(おさひと)親王の遊び友だち・手習いに選ばれ、常に親王の側で過ごす。統仁親王は後の孝明天皇で、明治天皇の父親にあたる。統仁親王が46年に121代天皇に就くと、東久世は49年に孝明天皇の侍従となる。幼少時からお側で仕えていたことからも、東久世が急進的な尊皇攘夷派であったことは容易に推察される。
 東久世は8月18日の変で「七卿の都落ち」の1人として、三条実美(さねとみ)らとともに宮廷を追われ、長州に逃れ、さらに太宰府に移る。その間長崎にも立ち寄り、10日あまりの短い期間ではあったが、外国商館の訪問や軍艦、洋船の見学、最新式の鉄砲の試発など、新しい海外事情を学ぶ機会を持つことができた。これが後に明治政府の要職に就けた理由でもある。
67年(慶応3年)、戊辰戦争が始まり、その年の10月には大政奉還、12月には王政復古で東久世は復権を果たす。「鳥羽伏見の戦い」では新政府軍の参謀を務めるまでになる。

 大政奉還後の新政府にとって、急を要する問題は旧幕府勢の平定とともに、米国を始めとした各国との外交問題であった。外交にあたって、最終決定者である天皇の意向を十分に理解し、判断を仰げる人物が求められていた。この点、天皇のお側に仕えた公家で外国人を見たことがあるのは、長崎滞在の経験がある東久世だけ。当時の外務大臣にあたる外交事務総督に就任することとなる。
 東久世の最初の仕事はいわゆる「神戸事件」の処理であった。67年1月、外交事務総督に就任早々、岡山藩士とフランス水兵との発砲事件があり、東久世は解決に当たった。東久世の下した判断は外国人立会いのもと、岡山藩士を切腹させるというものである。ちなみに、この事件で外国人の死者は出ていない。
 翌月には「境事件」が発生している。これはフランス軍艦の乗組員2人が土佐藩士と衝突。土佐藩士はフランス人の乗ったランチに銃撃を加え、11人の仕官と水兵が死亡したという事件だ。東久世はこの時も、発砲した土佐藩士20人に対し、外国人立会いのもと切腹を命じた。切腹して内臓を取り出す日本式切腹の作法は外国人にとって見るに耐えないもので、切腹は11人で打ち切りになったという。
いずれにしても、尊王攘夷の急先鋒で都落ちまでした公家が日本人を切腹に追いやったのである。一方、外国人は東久世を決断と交渉力に優れた外交官であると評価した。
69年、箱館戦争が終了すると間もなく北海道開拓使が編成される。長官には佐賀藩主鍋島直正が、副長官には東久世が指名された。これには、「七卿の都落ち」で東久世とともに長州に追いやられた三条実美らの推薦もあったといわれる。
蝦夷地出発を前に「開拓施策要綱」がまとめられたが、ロシアへの対応、開拓史の機構、漁場請負人制度の改定など12項目が決定された。
 場所請負人制度が諸悪の根源であるとの認識を持つ松浦武四郎は「本制度を廃止して役所の自捌き(じさばき)にすべきだ」と強く主張したが、東久世長官は「各所の事情や便宜を考慮し、各判官の判断に委任したい」とあいまいに総括した。これに反発した松浦は、開拓使判官に任命されてからわずか7カ月で職を辞した。
 69年9月、東久世は第2代開拓使長官として、5人の判官および200人の移住団とともにテールス号で蝦夷地に向かう。東久世は岩村通俊判官とともに函館出張所で開拓使全般の指揮を執り、一方島義勇判官は本府建設のため銭箱へ向かう。島は厳寒の中札幌建設に奔走するが、折からの飢饉による食糧不足に直面し、その調達に多額の資金を必要とした。結果、建設予算を大幅に超過。これを東久世は島の専断行為であると判断し、本府建設途中ながら彼を解任、建設も中止させる。東久世は開拓使発足から1年あまりで松浦、島という貴重な人材2人を失うことになる。

 70年8月、東久世は北海道各地の開拓状況視察に出向き札幌に入った。ここで、先に解任した島の本府建設を目の当たりにして、その発想の豊かさと短期間での成果に驚嘆し、これを促進するため、岩村に命じて再度建設させる。島はその後佐賀の乱でさらし首になるのだから皮肉なものだ。
 以前、当別を開拓した伊達邦直について記載した。戊辰戦争での朝敵という汚名がつきまとい、伊達には厳しい環境しか与えられなかった。最初に指示された地は沿岸から遠く離れた奈井江であり、その後石狩川河口の聚富(シップ)に決められた。この地は海岸の砂地で畑作に適しておらず、移住団全員が生き延びることはできないと再申請し、ようやく決められた土地が当別である。それを許可したのが東久世だ。これも東久世が北海道巡視に行った際に聚富も訪れ、そこが畑作に適してないと分かっていたためである。自分で確かめなければ納得しない性分なのであろうか。
東久世は北海道で2年間開拓使長官を務めた後、71年に侍従長として明治天皇に仕える身となる。82年には元老院副議長となり、84年には岩倉具視や三条実美など少数しかいない伯爵の位に就く。下級の公家であった東久世がこの地位にまで登り詰めたのは、外交事務総督や開拓使長官をつつがなく勤めたこととともに、常に天皇のお側に仕えたことも影響しているのではないだろうか。
 今回は少々辛口で書かせてもらったが、これもNHK大河ドラマで映し出されるお公家さんの印象が私の脳に焼き付いているせいだろうか。平民の私が高貴な公家出身者に対して持っている妬みかもしれない。そうだとしたら東久世には心よりお詫びしなければならない。
 次回は樺太建設に一生を捧げた岡本堅輔開拓使判官について調べる。