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北海道開拓の先覚者達(18)~松田伝十郎~更新日:2014年02月15日

    

 1月27日、北海道新聞は「厳寒北のシルクロード」という特集記事を2面にわたって取り上げた。同社は昨年11月特別取材班を編成。ロシア・ハバロスクを出発、アムール川(黒竜江)を800キロメートル北上して間宮海峡近くのブラワ村まで取材している。間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、その後大陸に渡ったが、プラワ村は間宮が訪れたデレンの近くである。この地はかつて黒竜江の交易拠点として満州官吏が詰めていた。
 同記事で国立民族博物館の佐々木教授は「アムール川は絹と毛皮という二大商品を中心に物産が行き交う、北のシルクロードだった」と話されている。夢とロマンを彷彿させる語感である。
 しかし、そこには山丹人(満州地域と樺太を行き来して交易を主業としていた北方民族)と松前藩の間で過酷な取引を強いられたアイヌの人たちがいたのだ。

 最上徳内は「蝦夷草紙」の中で、アイヌの人たちについて次のように記している。
「松前藩支配下の千島アイヌほど悲惨なものはなかった。これは地獄だ」
 当時、沿海州に住む山丹人は蝦夷地に来て、江戸や京都の人たちが喜ぶ絹織物「蝦夷錦」や飾り玉をテンなどの毛皮と交換していた。松前藩はアイヌの人たちにその交易を強制し、搾取により貧窮して返済できなくなると、山丹人は頻繁に蝦夷の少年を奴隷として連れ去った。
 最上と同じように、松前藩がアイヌ民族に強要した山丹人との交易に義憤を感じていたのが松田伝十郎である。松田は前回記載したように間宮と共に数カ月にわたり樺太を探検し、樺太が島であることを推察した人物である。
 松田は間宮との樺太探検(1809年)のあと宗谷詰めとなり、幕府の役人として樺太を管轄した。この樺太経営を通じて忘れる事ができない松田の功績は、山丹交易の改善である。
 間宮も訪れた黒竜江下流のデレンには満州の役人が出張しており、その地の山丹人に朝貢を求めていた。山丹人はテンの毛皮を貢ぎ、その報償として蝦夷錦などの絹織物を役人からもらう。
 朝貢のため山丹人はテンの毛皮を求めて樺太に行き、現地のアイヌに毛皮を集めさせ、アイヌにはわずかな蝦夷錦を交換物として与える。
 蝦夷錦は、京都では高僧の袈裟に用いられるなど、極めて貴重で高価な品である。ここに目をつけたのが松前藩。樺太アイヌに強制してこれを手に入れようとした。アイヌは懸命にテンの捕獲に努めたが、テンは次第に減り、山丹人に負債を重ねることになる。
 山丹人は満州の威光を笠に横暴を極めており、その負債に過酷な条件を付けた。もし払えない場合はアイヌの子弟を人質として拉致すると脅かし、実際多くの子弟が連れ去られた。
 山丹人の持ってくる珍物(蝦夷錦)を得ようとする松前藩と、横暴を極める山丹人の間で、アイヌの人たちの負債はますます増加し、樺太は山丹人の属国のような有様だった。
 「この関係を整理しないで樺太をどうして統治することができよう」--松田は自らこの問題の解決に当たることを決心する。
 松田は山丹人に「アイヌの借財は返済するから申し出よ」と告げ、返済額が判明すると、アイヌが支払うことのできない部分は官が支払い、アイヌを山丹人からの捕縛から解放した。
 山丹人との折衝は1810年(文化7年)から1812年まで続けられ、幕府(函館奉行)は、毛皮2500枚、131両を支払っている。これで決着がつき、それ以降山丹人とアイヌとの私的交易は全て禁止され、交易は役人立ち会いの上、樺太の南端シラヌシの会所でおこなわれることとなる。その支払いは幕府が蝦夷各地から集めた毛皮をもっておこなわれた。
 松田は山丹人の傲慢な態度を厳しく叱責し、くわえ煙草で部屋に入ってきたり、脱帽しなかったりという時は容赦ない対応で山丹人を震えあがらせた。松田の努力により、樺太における日本の支配権は確立されたのである。
 松田は間宮の上司であり、その協力者としても知られている。探検者であるとともに有能な官吏であり、また前述したように樺太アイヌの窮状を救った、高い人間性を備えた人物だ。

 松田は1769年(明和6年)、半農半漁の貧しい生活を営む浅見長右衛門の息子として越後で生を受けた。
 14歳のころ、土木工事の監督に来ていた幕吏に才能を認められて江戸に行く。このあたり、くしくも間宮と同じような運命をたどっている。
 江戸では下級役人の松田伝十郎(先代)の養子となり仁三郎と名乗った。1799年(寛政11年)には蝦夷地御用係を命じられる。この年は東蝦夷地が幕府直轄になった年であり、多くの幕臣が蝦夷地に渡った。その目的は千島に沿って南下するロシアの勢力を食い止めるためだ。
 江戸を出て3カ月目の6月24日に厚岸に着く。ここで、松田はアイヌの酋長イトコイに会う。イトコイはクナシリ・メナシの戦いの時、松前藩に恭純な姿勢を示し、和人を襲った37人のアイヌ人を差し出した張本人である。
 そのころ、イトコイは妾を30人も従えていた。松田はこれを諭し、彼女たちをイトコイの部下の独身者に分け与えたという話が残っている。
 1807年(文化4年)3月、3度目の蝦夷地勤務を命じられて江戸を出発し、蝦夷に向かうが、その途中で「文化露冦(ろこう)」事件の報に接する。松田は津軽兵30名ほどを率いて宗谷に赴き、北方防衛の任にあたる。
 1808年(文化5年)には伝十郎に改名し、間宮とともに樺太探検へ向かう。最上からは危険だから漁師に変装して行くようにと忠告されたが、武士姿そのままで威厳を整え、従僕には「年を越えても帰国しない時は、出船の日を忌日にせよ」と遺して出発した。覚悟のほどが窺われる。
 松田は樺太西海岸を、間宮は東海岸と二手に分かれて調査した。間宮は知床岬で北上を断念したが、松田はラッカ海峡(樺太と大陸がもっとも近くなっている場所)まで行き、潮の流れが強いことから島であることはほぼ間違いないと確信する。
松田の地元米山町(現新潟県柏崎市)では「樺太は島なり、大日本国境と見極めたり」と刻んだ碑が建てられており、間宮よりも早く島であることを確信した彼を称えている。

 1813年(文化10年)、高田屋嘉兵衛が尽力したゴローニンの釈放・帰国に当たり、その護送役としても活躍している。
 松田が初めて蝦夷地に渡ったのは1799年(寛政11年)のこと。以来24年間、蝦夷地が風雲急を告げる寛政・文化・文政にわたって、蝦夷地開拓と防衛に心血を注いだ。1821年(文政4年)宗谷詰めとなり、増毛から斜里、利尻・礼文島、樺太という広範囲を管轄することになった。しかしその年突然、幕府は蝦夷地の直轄を止め、全領地を松前藩に返すと決定した。
 過去の松前藩の所業に憤懣やるかたない思いを持っていた松田にとって、突然の任務解任は悔しかったのだろう。
「骨折りし24年の栗餅を黄粉くるめて鷹に取らるる」と、その思いを詠んだ。
 もしかしたら、樺太が島であることの名声を部下の間宮に取られたという思いも込められているのかもしれない。

 話は変わるが、2月7日は北方領土の日だ。この日は全国各地で北方領土返還運動が展開される。「北方領土の日」は1981年(昭和56年)1月6日、閣議了解によって決められた。
 江戸幕府とロシアとの間で最初に国境を取り決めたのが「日露通好(和親)条約」で、その調印が1855年(安政元年)2月7日に伊豆島田でなされている。この日が「北方領土の日」と決められたのだ。
 この条約では択捉島とウルップ島の間が国境となっており、樺太は両国の共同居住地としてあいまいになっていた。
 1945年(昭和20年)8月、ロシアは日ソ中立条約を無視して対日参戦し、満州、樺太、千島へ攻め込んで8月28日から9月5日までの間に北方4島を占領した。
 島民の半分は脱出、残った島民は22年から23年にかけ、劣悪な環境の下、樺太経由で引き上げることになった。引き上げ船の内2隻は留萌(苫前)沖で潜水艦(?)に撃沈され、多くの尊い命が失われている。
 私も幼な心に、その後の悲しみに包まれた留萌の様子を記憶している。
 1日も早い北方領土問題の解決を切に望んでいるが、ロシアの人達の80%近くが日本人と日本の文化(製品、アニメ)に好意的であるというのが救いである。
 一方、2月6日には「北方領土の日」反対、アイヌ民族連帯関東集会が東京・渋谷で開かれた。

その趣旨は「北海道・サハリン・北方諸島は、北方諸民族が住み自由に往来するアイヌモシリ(人間が住む静かな大地)である。19世紀後半から日露両政府による領土略奪で、アイヌ民族は虐殺され、土地は奪われ、強制移住させられた。アイヌ民族・北方諸民族への侵略植民地支配に対する謝罪も賠償もないまま続けられている領土交渉に反対する」というものである。
 また、2020年の東京オリンピックまでに白老に建設しようとしている「慰霊・研究施設(共生の為の象徴空間)」の建設に対しても反対している。
 現在、全国の大学(東大・北大・京大など)に1635体のアイヌの人達の慰霊が研究の為に収められている。「これらの慰霊や副葬品はアイヌコタン(郷土)に返還させるべき。研究や『先住民族であるアイヌと日本人は共生してきた』と国内外に宣伝する目的で展示するのなら、アイヌ民族の魂を踏みにじることになる」と主張している。
 我々は、最上、松田、松本十郎、そして松浦武四郎がそうであったように、アイヌの人たちに対して深い思いやりの心で、ヒューマニストとしてこの問題に当たらなければならないだろう。

 次回は、北海道開拓使判官として釧路、根室方面で活躍した松本十郎について調べてみたい。