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北海道開拓の先覚者達(16)~伊能忠敬~更新日:2014年01月14日

    

 昨年(2013年)7月、厚生労働省が発表した2012年の日本人平均寿命によると、女性が86.41歳で世界1位、男性は79.94歳で世界5位だ。世界でも類例のない超高齢化社会に突入している。人口および就業者の減少、社会保障費の負担増、1000兆円を超える国及び地方政府の債務総額のさらなる拡大、金融資産の取り崩しによる預金率の低下など、日本は今多くの問題を抱え込んでいる。果たして高齢者(私もその一員になろうとしている)は社会にとって“負”の存在なのだろうか。
 北海道開拓の始まった江戸時代後期から明治にかけての平均寿命を調べてみた。最も古い記録が明治24年から明治33年に調査されたもので、当時女性は44.3歳、男性は42.8歳となっている。なんと、現在と比較すると40歳前後も若くして亡くなっていることになる。もちろん、当時は幼少期の死亡率が高かったと思われるので、「人生50年」が江戸後期から明治初期では一般的だったのではないだろうか。
 このような時代、通常ならば隠居すべき50歳で天文学を志し、56歳で6カ月もかけて未開の蝦夷地を測量し、74歳で亡くなるまで日本全土を歩き回り詳細な地図を作製した人物がいる。戦前の修身の教科書では「晩学」の模範として教材にもなっている。
 今回はその偉大なる先覚者、伊能忠敬について調べてみた。

 忠敬は1745年、千葉の九十九里町で生まれた。7歳の時母が亡くなり、父は後妻を迎えたので親類縁者の間を転々と移り住み、時には九十九里浜の漁師の納屋で寝泊まりすることもあったそうだ。少年の頃から数学の才覚が抜きんでており、幕府の役人やお坊さんを驚かせるほどであったという。
 18歳の時、旧家伊能家の婿養子となる。伊能家は今の千葉県佐原市で酒造等を営む家柄であったが、当主が亡くなると家運が次第に衰えていった。このため有能な人材を婿養子にすべく親類が集まり協議の末、賢いと評判の高い忠敬を後継者に決定した。妻は未亡人で忠敬より4歳年上の22歳、嬶天下で忠敬は尻に敷かれていたと言われる。
 伊能家を継ぐと忠敬は倹約を守り仕事に打ち込み、また生来の商才もあって家業は10年の間に前にも増して栄えるようになった。また、1783年の天明の大飢饉では私財を投げ打って地域の窮民を救済している。こうした功績が幕府の知るところとなり、名字帯刀を許され37歳で名主に、さらに名主を統括する村方後見に任命されるまでになった。
 全村の管理のため田畑の位置・境界・広さなどを正確に知る必要から、次第に天文学に興味を抱くようになった。

 1795年(寛政7年)、姉さん女房も亡くなり長男に家督を譲って、幼いころから興味を持っていた天文学を勉強するため江戸に向かった。師事したのは当時天文学の第一人者と評判の高い高橋至時(よしとき)で、その門下生になる。
 この時忠敬51歳、至時は第一人者とはいえまだ32歳である。普通なら20も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことには抵抗があるだろう。ましてや、年上を敬う儒教が全盛の時代である。しかし忠敬は違った。燃える向上心の前ではプライドなど取るに足らないものと思っていたのだろう。
 当初、至時は忠敬の弟子入りを年寄りの道楽とだと思っていたが、昼夜を問わず猛勉強する忠敬を見て、弟子を心から尊敬するまでになった。忠敬は伊能家を再建したことにより資産を有していたので、巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過観測もしていた。
 このころの忠敬の興味は地球の直径を計測することだった。「北極星の高さを二つの地点から観測し、見上げる角度を観測することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と忠敬は至時に提案する。至時は2地点が遠ければ遠いほどより正確に測定できるとして、江戸のはるか遠方に位置する蝦夷地と江戸間の距離を測ることを勧めた。

 時あたかも、ロシアが南下しエトロフ島を奪う勢いであるとの情報がしきりに江戸に入っていた。幕府も松前藩に任せておけなくなり調査隊を派遣し、翌1799年東蝦夷地は幕府直轄の地となる。
 このような時、忠敬は自費で蝦夷地を測量したいと請願したのである。幕府は蝦夷地測量の必要性は痛感していたものの、忠敬の技量を信用していなかった。結局、元百姓・浪人の肩書で試みに派遣することを決めたが、与えられた調査費用は極めて少額であった。
 1800年4月19日、56歳の忠敬は若い門弟3人と下男2人を引き連れ、江戸の仮住まいを出発した(ちなみにこの年は、近藤重蔵が最上徳内等を引き連れ、高田屋嘉兵衛の船でエトロフ島に渡った年でもある)。
 忠敬一行は奥羽街道を毎日30キロから50キロ歩き、歩数が一定になるように訓練をして走行距離を測り、羅針盤で方向と遠方の山並みの方位を測定、また夜間には恒星の高度から緯度を算出した。
 青森三厩に到着したのは20日後の5月10日。波のおさまるのを待って出航し、対岸の蝦夷地(松前・吉岡)に着いたのは、江戸を発ってから33日目だった。
 函館から東南海岸沿いに未開の地を歩数で距離を測りながら一日20キロから30キロの行程で海岸線の危険な場所を踏破し厚岸に至った。江戸出発してから105日目である。
 江戸の至時は「今、天下の学者はあなたの地図が完成するのを、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の歴学の盛衰に関わっているのです」という手紙を送っている。帰路も往路と同じ道筋を通り、往路の測量を点検しながら函館に着いた。
 1700キロの行程を終え江戸に帰着したのは10月22日。出発してから実に177日が経っている。測量した情報を基に直ちに製図に取り掛かった。12月には幕府に大図21枚と小図1枚を提出したが、その出来栄えは見事なもので至時も驚嘆したほどである。

 蝦夷地測量の結果、地図の作成と共に忠敬の年来の宿題であった子午線1度の長さを計測することが出来た。1度を110.85キロと算定し、地球の円周を約4万キロと測定した。これはオランダで計算された数値と比べ、その誤差は無いに等しい値であった。この結果はシーボルトにより世界に紹介され、忠敬の評価は高まった。
 1801年には静岡県から青森県の測量、1803年には福井県・三重県の測量を実施し、日本東部の沿岸実測を終了した。
 1804年、将軍徳川斉彬に提出した「本邦東半部沿海実測地図」は、そのあまりの精密さに幕府役人が息をのんだ。忠敬の測量家としての名声は高まり、幕府は忠敬を小普請組(こぶしんぐみ)に抜擢し、天文方に配属した。
1805年(60歳)、天文方で今度は西半部の測量を命じられる。今回は小普請組でもあり各種の便宜が与えられ、時には100人を超える調査隊を率い詳細な測量が行われた。
 すべての測量が終わった時、忠敬は70歳を迎えていた。15年かけ歩いた距離は実に4万キロ。忠敬が計算した地球1周と同じ距離になる。娘に宛てた手紙には「歯はほとんど抜け落ち1本になってしまった。もう奈良漬も食べることはできない」と書いている。

 全国の測量が完成した後、日本全国を統合する地図を作製するよう命令を受けた。しかし1818年、完成前に忠敬は74歳で生涯を終える。門弟たちは「この地図は伊能先生が作ったものと世間に知らしめなければならない」と、死を隠して製図にあたる。間宮林蔵の実測した蝦夷地の材料を加え、1821年全図を完成させた。これが「伊能図」といわれる「大日本沿海与地全図」だ。大図が214枚、中図が8枚、小図が3枚にもなった。途方もない規模のもので、並べると野球のグラウンドほどである。
 伊能図は長い間、幕府の秘庫に収められていたが、江戸城引き渡しの際、西郷隆盛がこれを見つけ出したといわれる。伊能図は明治新政府に引き継がれ、北海道の開拓はもとより近代日本の建設に大きな役割をはたすことになった。
 忠敬が亡くなった43年後、イギリスの測量艦隊が明治政府を強要して日本沿岸の地図を作製しようとした。この時伊能図を見せられ世界水準の正確な地図であることに仰天。測量を中止すると共に、文明後進国と見下していた日本の評価を改めたと言われている。

 忠敬は遺言に「私が大事を成し遂げられたのは至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」と遺し、上野の源空寺に弔われている。
 地図を仕上げた至時の息子高橋景保は、その縮小版を持っていた。シーボルトは世界地図と交換したいと働きかけ、その写しを国外に持ち出そうとした。たまたま1828年に九州を襲った猛烈な台風で難破した船の中からこの写しは見つかり、景保は捕えられ失意のうちに獄死した。いわゆるシーボルト事件である。またその時の台風はシーボルト台風と呼ばれている。間宮林蔵が密告したとも伝えられている。景保は「私は罪を認め、罰も受けるが、この世界地図は日本のためになる」と遺している。

 当時の平均寿命を考えると、50代後半から70歳に至るまで道なき道を4万キロも踏破した忠敬の偉業には頭の下がる思いだ。そこで、北海道開拓の先覚者の中で、困難を極めながら探検・測量し蝦夷地を歩き回った人達の享年を調べてみた。最上徳内82歳、松浦武四郎72歳、岩村通俊76歳、伊達邦成74歳、間宮林蔵70歳といずれも長命であることに驚かされた。「人生50年」の時代、死に至る直前まで奮闘された方々である。
 意思の強さと共に、歩くこと・鍛えることの重要性を教えてくれる。私も酒量を減らし、大いにトレーニングしなければと自戒させられる。

 今回は少々長文になったが、お許しください。次回は間宮林蔵とその上司であった松田伝十郎について調べ、報告いたします。