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北海道開拓の先覚者達(12) ~伊達邦成、田村顕允②~更新日:2013年11月15日

    

 「伊達市開拓記念館」に入ると正面に、おひなさまが赤い毛せんの上に飾られ、訪れる人の目をひときわ引き付けている。高さ数十センチもあろうかと思われる“享保雛”や、座り雛最古の“寛永雛”など40体が並べられている。
 辛苦を極めた開拓の歴史に似つかわしくない展示物と思われる、反面、開拓者たちの心をいたわり慰めてきたおひなさまなのだろう。

 このおひなさまをはるばる北海道に持ち込んだのは、「伊達家最後の姫」とも「開拓の母」とも呼ばれる貞操院保子。
 貞操院保子は、伊達家宗藩最後の藩主伊達慶邦(よしくに)の妹として生まれる。幼い頃は「お祐さま」と呼ばれ、深窓の花として大切に育てられた。
保子は17歳で伊達家の支藩、亘理伊達家の藩主伊達邦実(くにさね)に嫁いだ。いわゆる降嫁である。一女菊子を生むが、夫の邦実は若くして亡くなり貞操院となる。菊子が成長すると養子として岩出山伊達家の二男、邦成(くにしげ)を迎える。したがって、貞操院は北海道開拓という苦難の中、藩を挙げて取り組んだ伊達邦成の義母にあたる。
 有珠支配を命じられた時、邦成は家臣ともども貞操院に国に留まるよう説得したが、これを聞かず自ら進んでこの大業に参加し、邦成を助けんことを請うて止まなかった。
貞操院は1871年(明治4年)4月、第3回移住者250名と来道、原野で粗末な仮屋に住み、移住者と苦汁を共にした。時に45歳(60歳の説もある)。自らの装身具を売り払って開拓資金に充て、その熱意は開拓者の心に大きな支えとなった。

 前稿で紹介した小野ふかし画集「樹海に拓く」で、その後の開拓の進展を見ていきたい。

■「貞操院のはげまし」:茶碗と土瓶を手に提げた尼僧姿の貞操院が、大木を切り倒し畑を耕している家臣たちに「ご苦労さん」と話しかけている様子が描かれている。赤ちゃんを背負い、働きやすいように袖を切り裂いて短くした家臣の奥さんが感謝の気持ちで深く頭を下げている。まさに「開拓の母」の姿がそこに描かれている。

■「副島種臣(たねおみ)と東久世通禧(みちとみ)の視察」:第3次移住団が到着の3カ月後、副島参議と東久世開拓使長官が移住の進展を視察に来道した。画には十数頭の馬にまたがった視察団と邦成一行が登場している。これらの馬は伊達を訪れた視察団が連れてきたのではなく、邦成が用意したものである。1870年(明治3年)、官営の有珠牧場が廃止され、30頭の馬が移住団に譲られたが、それらの馬を視察団のために提供したものだ。邦成が馬を引き連れ迎えに来たことに、両名は大いに喜んだとのことである。
さらに、移住後間もない時期に生産された大豆・小豆等をご覧いただき、その見事な出来ぶりは大いに賞賛された。その一部は東京に運ばれ、天皇に供されたとのことである。
 なお、馬の数はその後順次増え、後の西洋式プラウ(犂:すき)農業でも大いに開拓団の支えになった。

■「疎水(用水路)の拓削工事」:一日も早く生活用水を確保するため、満足な道具もない中で原野に堀を通す作業に取り組んだ。延べ千数百人による工事の結果、用水路は通水した。これにより、飲料水、畑作用水、さらに水車の動力源を確保することが可能になった。
 この画には「水河なくして生活に苦しみ、阿部文十郎、兵頭健蔵など率先して掘削に努力し、遂に同年8月19日成功。この日を記念して碑を建て毎年祭典を施行せられる。開拓使長官より桐の紋章の木杯を賜る」~小野ふかしが識者の見聞を受けて画に記している。

■「西洋農具の導入」:北海道農業にプラウが実際に用いられたのは、1874年(明治7年)である。開拓使は民間による西洋農具の採用を試みた。この方針に邦成は喜んで資金を出し、農具を求めた。プラウを引く馬はこの時期相当数に達しており、また移住者はその使用にも慣れていたので、プラウ耕(北海道式農法)は伊達の地で定着していった。
 プラウ耕は、これまでの人力で耕す方式に比べ4倍の生産性を上げ人々を驚かせた。数年にしてプラウの数は130台にも達し、全道の3分の1を占めるほどになる。邦成の先見性がここでも発揮された。

■「ケプロンの視察」:北海道の拓殖計画を推進するため開拓使長官黒田清隆は渡米し、当時のグラント大統領の了解を得、現職農務長官ホーレス・ケプロンを特別顧問として北海道に招いた。
ケプロンは1874年(明治7年)6月、紋別の開拓地を馬車に乗って視察し、畑作・甜菜・畜産の有望性を説いた。また、交易に関する提言もおこなっている。
 画では車輪の上に箱が置いてあるだけの簡素な馬車にケプロンが乗り、邦成以下を引き連れている。移住者たちが珍しそうに見ている様子が描かれている。

■「我が国初の甜菜製糖所」:札幌農学校教頭(実質的には学長)ウイリアム・クラークは、1876年(明治9年)7月から8カ月間札幌農学校で指導に当たった。翌年日本を去る際に、現在の北広島市で有名な「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉を残している。クラークはその足で伊達(紋別)に立ち寄り、欧米式有畜混合農業を勧めると共に甜菜栽培を促した。
 やがて1880年(明治13年)に官立製糖所が建設される。画には、モクモクと黒い煙を出している2階建ての工場と、次々に運搬されてくる甜菜を積んだ馬車が描かれている。
 この時期には農地が拡大しプラウ農業で生産性も上がり、自給自足農業から商品作物栽培へと進んでいった。

■「黒田清隆長官の視察」:黒田清隆長官は1881年(明治14年)、伊達(紋別)の開拓状況を視察するため現地を訪れている。小野ふかし画集「樹海を拓く」にはその時の様子を3枚の画で紹介している。1枚目の画は、邦成の接待の席で黒田長官が書をしたためている様子で、伊達開拓団の功を称える内容が書かれている。2枚目の画は各戸が所有している西洋農具(プラウ)を伊達邸前に並べ、黒田長官がそれを視察しているものだ。3枚目の画では、アイヌの人達が投げ輪で野馬を捕獲しているのを黒田長官が馬上から興味深くご覧になっている様子が描かれている。
この時期、伊達邦成率いる開拓者は1800人を超えており、プラウによる大規模農業、西洋果樹栽培、甜菜栽培と製糖工場、養蚕による伊達繭生産、牧牛の拡大、菜種油の製油工場、藍の採取による製藍工場、さらに製鋼所も建設された。邦成と家老田村顕允(あきまさ)の施策が着々と実践され、成果が実ってきた時期だ。
 このような時、後に我が国第2代総理大臣になる黒田清隆が訪れたのだ。
移住後10年、辛苦を乗り越え最新農業をここまで発展させた移住武士団。開拓使長官黒田清隆の視察を受け、大いにその努力を賞賛された邦成の誇らしげな姿が垣間見られる。
 1892年(明治25年)、邦成はその偉業が認められ男爵を授けられた。また、1900年(明治33年)には近隣5カ村を合わせ伊達村が誕生し、その功を永遠に伝えられることとなった。
 次回は邦成の実の兄で、当別開拓を指揮した伊達邦直を取り上げたい。