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北海道開拓の先覚者達 総集編―5更新日:2017年02月01日

    

明治2年5月18日、榎本軍の抵抗空しく五稜郭は開城となり、徳川300年の最期となる戦いは終わった。蝦夷地開拓と北方警備は新政府の重要事項であり、開城の1週間前には既に「蝦夷地開拓の件」が上奏され、6月4日にはその実施計画作成の命が下された。その命を受けたのは肥前佐賀藩城主の鍋島直正。翌7月13日に鍋島は開拓使長官に就任する。開拓使は、内務省や外務省、大蔵省等と同格の中央官庁の1つで、北方開拓を重視する政府の姿勢の表れとみることができるであろう。

鍋島直正は17歳で佐賀藩主を継ぐと、危機的状態にあった藩財政を「債務と役人の大幅削減」「農業改革を主体とする産業育成」「教育の振興」という三本の矢で復権させ、その余剰資金で当時最強の武器であったアームストロング砲や蒸気機関による軍艦を製造。軍備の増強を図った。早くから北方(ロシア)の脅威を認識し蝦夷地開拓の重要性を指摘したほか、1854(嘉永7)年には信頼する部下、島義勇を箱館奉行の堀織部正の近習に据え、2年間にわたり蝦夷地・北蝦夷地(樺太)を調査させている。この時、島が作成したのが「入北記」で、その後の蝦夷地開拓方針を決める上で重要な資料となった。「鍋島公の目は南に端にいながら常に北の端に光っていた」のだ。

鍋島公は病身でもあり、初代開拓使長官をひと月余りで辞し、大納言になる。しかし、蝦夷地への思いは強く、明治2年にキリタップ場所(現在の浜中町)に佐賀藩民12戸を移住させ、さらに明治4年には290人を同地に入植させている。356人の屯田兵も出すなど、佐賀県と北海道との強い結びつきは、鍋島公の北方への思いを端緒にしたものであろう。

鍋島直正開拓使初代長官の後任になったのは公家出身の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)。明治2年9月、東久世は第2代開拓使長官として5人の判官および200人の移住団とともに、テールス号で北海道・函館に向かった。同行した判官は、銭函出張所に向かい北海道本府建設の命を受けた島義勇、函館から小樽出張所担当の岩村通俊、根室出張所担当の松本十郎、樺太出張所担当の岡本監輔、そして宗谷出張所担当の武田信順である。なお、松浦武四郎は東京の開拓使本庁勤務であった。

東久世通禧は、明治天皇の父君である孝明天皇(皇太子の時は統仁:おさひと)に幼少の頃から仕え、天皇になると侍従の任を与えられる。孝明天皇の側で長く仕えたことから、東久世は急進的な尊王攘夷派であったと容易に推察される。当時、長州を主力とする尊王攘夷派と会津などの押す公武合体派が覇権をめぐって争っていたが、1863(文久)年、のクーデター“8月18日の変”で長州藩と急進公家が朝廷から一層される。東久世は三条実美(さねみ)らとともに長州に逃れる(七卿の都落ち)。大政奉還後東久世は復権し、外交事務総督の要職に登用され、明治2年に開拓使が編成されると次官となり、翌月には鍋島公の後を継いで長官に指名される。これには「七卿の都落ち」で共に長州に追いやられた三条実美の推薦もあったのだろう。開拓使長官になり、東久世は結果的に北海道開拓にとって、なくてはならない2人の判官を追いやることとなる。まず松浦武四郎。松浦はアイヌ民族を酷使する場所請負制度が諸悪の根源であるとして制度の廃止を強く訴えたが、東久世は優柔不断で廃止の判断を下さなかった。これに反発した松浦は開拓使判官に任命されてからわずか7カ月で、その職を辞した。次が島義勇。島は北海道本府を建設すべく厳寒のなか奔走したが、折からの食料不足で資金を使い果たした。これを島の専断行為とみなし、東久世は島を罷免する。開拓使が発足してからわずか1年余りで松浦・島という貴重な人材を東久世は失うことになる。

鍋島公が開拓使長官を辞して、北方の地開拓の思いを委ねたのは島義勇だった。鍋島公は島が蝦夷地に出立する前、島の自宅を訪れ巨杯を注ぎながらかの地への思いを告げ、さらに名刀を授けている。島の感激は如何ほどだったろうか。

北海道神宮の正面左側に、開拓三神を背に負い旅姿の島判官の銅像が建っている。明治天皇から蝦夷地開拓の本拠(本府)を建設する命を受け、箱館到着後ただちに、酷寒の中陸路銭函を目指す。「風雪禁じ難く憩うに家なし 壮士は叫(おら)び女子は泣く」という過酷な行軍だった。厳内(岩内)から舟に乗るが、波は天を打つばかりに荒れ狂っている。ようやく銭函に到着し、翌日札幌の円山コタンベツの丘に登り、これから開発に着手しようとする地をながめ、有名な次の句を詠んだ。

平原千里地膏沃
(どこまでも平原が広がっており、その地味は豊かである)

四通八達宜開府
(どこにでも通じており、この地こそ本府を設ける場所だ)

他日五州第一都
(いずれの日にか、世界第一の都市になるであろう)

島は、開発途上で開拓使長官から咎められ判官を罷免。最後は佐賀の乱で捕らえられ晒し首の刑に処せられた。

東久世は島を罷免後、初めて札幌の地を踏む。この時、東久世は島が取り組み建設途上であった本府工事を目の当たりにし、その発想の豊かさと短期間での成果に驚嘆。土佐出身の岩村に再建設を命じる。明治5年1月、守備万端の体制を整え、岩村は札幌本府の建設に取りかかった。島の大構想を岩村は緻密な作業計画と兵站計画で取り組み、6月には札幌を正式な北海道の首都とすることが公認された。岩村は4年余り北海道で勤務したが、この間、ススキノに遊郭を造り開拓者たちの士気を高めたり、家屋を燃えにくい石造りに変えるべく自ら指示して木造藁葺(わらぶき)屋根の家に火をつけ燃やしたりしている(御用火事)。岩村は、いささか強引な手法を取り入れながらも札幌建設に邁進していった。しかし、東久世が去った後、開拓使次官として実質的に権限をふるった黒田清隆と意見が合わず免官となった。
1882(明治15)年に開拓使制度が廃止となり、1886(明治19)年に北海道庁が設置されると、岩村は初代長官(知事)に選任される。その後の3年間で、岩村は上川地方の開拓、新道の開設、鉄道の測量、電話線の設置など着々と開発をおこなっていった。また、民間資本の誘致や道庁赤レンガ庁舎の建設、札幌農学校の拡充などを精力的に実施し、この間に北海道の開発は急速に進んでいった。

留萌支庁小平(おびら)に松浦武四郎の銅像が建てられている。松浦は7度にわたって蝦夷地を調査測量し、詳細な地図を作成するとともに、9000を超えるアイヌ語地名を日本語に置き換えている。天塩川探査の帰途、音威子府でアイヌの長老アエトモから「アイヌは自らその国をカイと呼ぶ」と聞かされる。明治2年7月17日、明治政府から蝦夷地の改称を依頼され、松浦は6つの候補を提出する。その中の1つが「北加伊道」。北海道として選ばれ、同時に松浦起案による道内11カ国82郡が名付けられて現在に至っている。松浦は一日60キロから70キロのペースで荒野を歩き回った探検家であり、膨大な書籍を遺した著述家であり、地理学者、言語学者としても優れた功績を遺した。松前藩や場所請負人に虐げられたアイヌの人々に対し、理解と愛情を持ったヒューマニストでもある。蝦夷地探検の第一人者として、52歳で開拓使判官を任ぜられるが、先に触れたように東久世長官と意見が合わず、僅か7カ月で役職と官位を返上した。

開拓使判官として根室・釧路の開拓に多大な貢献をした松本十郎。その後、黒田の推挙で開拓使大判官に命じられ、北海道開拓の責任者となった人物だ。松本は戊辰戦争で会津が降伏した後も最後まで薩長軍と戦った庄内藩の若き武将だった。黒田は敵将でありながらも松本を有能な人材と認め、開拓使判官として採用した。開拓三神を戴き、東久世長官以下の開拓使は函館に到着したが、松本はその後130人を連れて根室に向かった。この130人は実は東京の浮浪者や無宿者で、その後松本を苦しめることになる。松本は彼らの大多数を追い出し、佐賀出身の移住者を中心に道東地区の開拓に邁進する。アイヌの人たちとも分け隔てなく接し、ざんぎり頭でアイヌの衣装「アッシ」を常に纏い、アッシ判官として親しまれていた。岩村が黒田長官に罷免された後、松本が大判官に抜擢され、札幌で北海道開拓の全権を任されることになる。養蚕を推奨し現在の桑園地区を開拓したり、大通公園の原点となる花畑を官舎に造園したりしている。松本は、自分を抜擢してくれた黒田に感謝と尊敬の念を常に抱いていたが「樺太・千島交換条約」を契機に松本は黒田とたもとを分かつことになる。樺太アイヌの人々を移住させる際、松本は彼らの希望通り、故郷が遠望でき漁業の適地である宗谷への移住を主張したが、黒田および榎本武揚は江別市対雁に強制移住させることを決定する。結局、800人を超えるアイヌの人達は慣れない地で伝染病に罹り、その多くが亡くなる結果となった。松本は、黒田に伝えることなく開拓使大判官の地位を辞し、郷里の庄内に戻る。この時松本十郎は38歳の若さだった。

樺太(サガレン)開拓に熱い思いをたぎらせたのが松本十郎と同じ1839(天保10)年に生まれた岡本監輔。岡本は以前耳にした「サガレン」という地名が頭から離れず、たまたま目にした間宮林蔵の著作「北蝦夷図説」や松浦武四郎の「蝦夷日誌」「蝦夷紀行」を読み、樺太への思いはさらに高まっていく。箱館奉行所を強引に説得して樺太に入り、慶応元年(1865)には前人未踏の樺太一周を成し遂げる。ここで、岡本はロシア勢力の南下に対し深刻な危機感を抱くに至る。勤王か佐幕かと大揺れに揺れている時、江戸に赴き坂本龍馬に会うなど、樺太の窮状を訴える行動に出たのである。勿論、世情はそれどころではなく、岡本が打った手は貧乏公家の清水谷公孝(しみずたに・きんなる)を利用することだった。岡本の熱弁に若く純粋な清水谷は痛く感激。清水谷は同じく公家の友人、高野保健(たかの・やすたけ)とともに「蝦夷地に鎮撫使を派遣すべき」と明治天皇に建議する。この起案は承認され、清水谷は箱館裁判所総督(後に函館知事)となり、岡本は権判事・樺太担当として農耕民200人を連れ念願通り樺太に赴任することとなる。その後、箱館戦争を経て開拓使が設置されるが、岡本は引き続き判官として樺太担当を任される。

明治3年、開拓使次官として黒田清隆が就任し樺太を視察するが、ロシアの勢力が圧倒的に日本を凌駕している実態をつぶさに見、樺太を放棄し北海道に集中すべきとの結論に至る。これに憤慨した岡本は黒田次官に判官辞職通知をたたきつけ、長年の強い思いであった樺太から引き上げることになる。岡本は1891(明治24)年、千島開拓を企て「千島義会」を結成するが、乗船が沈没し、その思いは残念ながら頓挫してしまう。

開拓使判官として初期に推挙された松浦武四郎、島義勇、岩村通俊、松本十郎、岡本堅輔は、何れも上司との軋轢の中、北海道開拓の強い思いの半ばで退任せざるを得なかった。すさまじいばかりの人間模様である。

私達は、先人の北海道開拓に関わる艱難辛苦に思いを寄せ、この地の発展と活性化に務める必要があるあろう。