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北海道開拓の先覚者達 総集編―4更新日:2017年01月15日

    

鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は薩長を中心とした新政府軍に思わぬ敗戦を喫し、徳川慶喜は大政を奉還することになった。これを潔しとしない海軍奉行の榎本武揚は、徳川幕府藩士の生活を維持し、加えて北方の開拓と防備のため、旗艦開陽丸ほか、7隻の軍艦、2000人の軍勢で品川を出港、蝦夷地に向かう。途中仙台に寄り、土方歳三、大鳥圭介、高松凌雲等ら1000人を加え、総勢3000人で森町の鷲ノ木に上陸した。箱館住民やすでに開設されていた各国領事館への混乱を避けるため、直接箱館港への上陸を避けたのだ。

五稜郭に居城している清水谷知事に「蝦夷を徳川家にお貸しくださるよう朝廷に願い出ているので蝦夷地をしばらくお貸し願いたい」との書状を送るが、箱館府の軍勢は榎本軍に攻撃を仕掛ける。榎本軍は、海岸沿いに土方軍を、内陸路を大鳥軍が進軍し、五稜郭に向かう。しかし、五稜郭に至るとそこはもぬけの殻。清水谷知事以下の箱館府軍は青森に逃亡した後だった。

次に、榎本は松前城主松前徳廣に「力を合わせて蝦夷地の開拓を願う」との書状を送るが使者は斬殺される。この時、松前藩藩主は松前徳廣。徳廣は25歳の若さでかつ病弱であり、急進派の田崎東が榎本軍に対抗する全軍の指揮を執っていた。榎本軍は土方に700人の兵を与え、松前城攻略に向かう。土方軍に加え海上からの砲撃で松前城は陥落し、松前軍は摩松前に火を放ち完成したばかりの館城(たてじょう:江差の内陸)に移動しそこに籠るが、榎本軍に抗しきれず熊石に退却。さらに青森に逃亡する。200石の小型船「長英丸」に藩主家族など71人が乗り込み、荒海の中二日三晩かけて到着するが、途中2歳の鋭子は船上で亡くなり、病身の藩主松前徳廣も到着後血を吐いてこの世を去る。榎本軍は勝利したものの。この戦でも大きな損害を被った。旗艦の開陽が江差で座礁し、戦力を大きく削ぐことになったのだ。榎本軍は五稜郭に凱旋後「蝦夷共和国」を設立し、日本初めての選挙で榎本武揚が総裁に選ばれる。

明治2年3月、薩長を中心とした新政府軍は7000の軍勢が8隻の軍艦に乗りこみ品川を出発、雪解けを待ち4月に乙部から上陸を開始した。彼我の勢力および火力の差は大きく、榎本軍は追い詰められ土方も一本木関門で奮闘の末討ち死にした。政府軍の総攻撃が開始されようとした時、榎本の人物と才能を惜しんだ参謀の黒田清隆は使者を送り、榎本に降伏を求める。この時の使者が後に登場するサッポロビールの創設者・村橋久成で、相手は箱館病院院長の高松凌雲だった。なお、高松はパリに留学し「神の国」という病院兼医学校で学んでいる。そこでは貧しい人々にも平等に医療の機会を与えており、高松は心を打たれた。箱館戦争終結後、高松は東京で医院を開業。1882(明治15)年に「同愛社」を設立した。この組織は日本で初めての赤十字精神に基づく医療活動機関である。

黒田の降伏勧告に対し、榎本は「潔く討ち死にする」と書いた書状とともに、国際海洋法の原典である「万国海津全書」2冊を黒田清隆に送り、勧告を拒絶する。黒田は榎本の気概に感激し、酒樽と肴を榎本に送ったとのことだ。結局、旧幕府軍は降伏し、榎本以下7人が東京の獄舎に入れられる。木戸孝允を中心とした長州出身者は打ち首を主張するが、黒田は頭を丸め必死に助命運動を展開。獄中2年を経て、榎本らは解放され開拓使に勤めることになった。

榎本の開拓使としての最初の仕事が北海道鉱山検査巡回で、明治6年、空知(夕張山系)に有望な石炭鉱脈を発見。空知地方のその後の発展に大きく寄与する。さらに石炭運送の為札幌から小樽まで日本で三番目の鉄道「手宮線」を開設し、その後空知まで延伸することになる。これにより、小樽には金融、商業、運送の企業が相次ぎ開設され、活況を呈することになった。また、榎本は小樽に龍宮神社を建て、函館戦争で亡くなられた戦士を弔っている。

黒田は箱館戦争後、初代開拓使長官・鍋島直正の後を継いだ東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)長官のもと、次官として実質的に開拓使を率いる。黒田は明治4年、開拓使10年計画を建議し、総額1000万円(現在の数兆円)にのぼる大規模予算を獲得。その実現に邁進する。

特筆すべきことは、自ら訪米し、米国大統領ユリシーズ・グラントに面会し、時の農務長官ケプロンを北海道開拓の指導者として派遣してもらいたいと懇願し、大統領の了解を得たことだろう。黒田は29歳、ケプロン68歳のころだった。ケプロンを開拓使教師頭取とし、アンチセル、クラークなど多数のお雇い外国人を招聘し、北海道開発に多大な貢献を果たすことになる。黒田はその後開拓使長官を経て、わが国2代目の総理大臣として明治政府の重鎮にまで上り詰める。

なお、箱館戦争で敵・味方に分かれて戦った黒田と榎本は戦い終了後お互い尊敬・信頼する間柄となり、「千島・樺太交換条約」において黒田は榎本を海軍中将として交渉に当たらせ、締結させている。2人は縁戚関係でも密なものとし、黒田は長女を榎本の息子に送り出し、また黒田は養子の三男を榎本の孫娘に迎えている。

箱館戦争で新政府軍軍艦の入港を阻止するために榎本軍が海岸に張り巡らせた網を除去し、さらに新政府軍の道案内をしたのが小林重吉と佐野孫右衛門。小林は三石に昆布の一大製造所を持つとともに、自宅で船員の養成を行い、函館商船学校の礎を造り上げた。この学校で養成され卒業した船員は650人を数えた。

佐野は代々米屋を名乗っていたが、四代目は久寿里(くすり:今の釧路地区)の開発に取り組んだ。東北や箱館から漁民637人をこの地に移住させ、自費で家屋・漁具を与える他、医療や教育にも心配りし人々から尊敬を得ていた。釧路市の佐野碑園に孫右衛門を検証した碑が建てられている。

黒田の依頼で高松凌雲を箱館病院に訪ね、榎本に降伏勧告を促した村橋久成について追記する。村橋は薩摩藩支藩の家老格の家に生まれる。明治維新前、薩摩藩は俊才の誉れある若者を五代友厚の提言に寄り英国に留学させたが、若き村橋もその一員として選ばれていた。箱館戦争では黒田参謀の軍監として参戦している。明治政府の下に開拓使が出来ると、黒田の指名により開拓使顧問ホーレス・ケプロンが提言した東京官園の農業掛となる。ケプロンは東京官園で生育を試験した農作物を北海道に移植しようとしたのだ。村橋は計画中の七重(今の渡島管内七飯町)官園への転任を希望し、受け入れられる。村橋は厳冬の中七重官園の測量を行い、明治7年竣工の基礎を築いた。

その後、再度黒田の指示により、村橋は琴似の屯田兵村の建設を任され、現在の琴似中央通りの両側に208戸の兵屋を建てた。北海道開拓を担った屯田兵は1904(明治37)年までに、37兵村7337人が駐屯し、家族を含め3万人超が全国から新天地北海道に移住した。その第一号が琴似であり、村橋の設計・建築した兵村・兵屋がその基本となった。

さらには北海道で野生のホップが発見され、ビール醸造の機運が高まってきた。黒田の計画は東京官園で先に醸造所を造り、その後北海道に移すというものであったが、村橋は罷免覚悟で稟議書を出し、最初から札幌に建設することを推し進めた。そして1875(明治8)年、日本で初めてのビール製造所「開拓使麦酒醸造所」が完成した。これが「札幌ビール」の始まりである。村橋は明治15年に開拓使が閉鎖される直前、突然姿を消し、その10年後に神戸で行き倒れの姿で発見される。

 戊辰戦争で、官軍の従軍医師として敵味方の区別なく兵士を治療し、多くの命を救ったのが関寛斎である。戊辰戦争後、寛斎翁は官を辞して徳島で医院を開業し、高松凌雲と同様貧しい者からは治療費を受け取らず、名医として敬愛されていた。72歳の時、突然すべてを打ち捨て妻と共に北海道に渡る。開拓を目指した地は酷寒の地斗満(とまむ:今の陸別町)。厳しい寒さの中斗満川で水浴し、自ら鍬を下すと共に、入植者の指導や医療に尽力した。1912(明治45)年、明治天皇崩御の年、82歳で自らの命を絶つという壮絶な一生であった。陸別町には関寛斎翁の記念館や銅像があり、町民から今もこよなく愛されている。