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北海道開拓の先覚者達 総集編―3更新日:2016年12月15日

    

 1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に、そしてロシアのプチャーチンが長崎に来航し、日本との交易・開港を強く求めた。さらにロシアは千島・樺太との国境線設定を幕府に迫ってきた。このような中、翌1854(安政元)年、幕府は蝦夷御用掛の堀織部正(ほり・おりべのしょう)を指揮官として蝦夷地・北蝦夷地(樺太)調査団を派遣した。この調査隊には後の開拓使判官島義勇や蝦夷共和国を設立した榎本武揚も加わっていた。

 幕府調査隊が出発する直前、ペリーが箱館にも来航することを知り、堀は同行予定だった武田斐三郎を箱館に残し、ペリーとの交渉一切を彼に任せている。武田は当代随一の知識人であり「科学技術の先駆者である」と勝海舟からも高く評価された人物である。武田と会談したペリーも武田の人物と学識の深さを褒め称えたという。

 さて、幕府調査隊が江戸に戻り、ロシア南下の危機に対応する必要があること、さらに松前藩は北方防衛に無力であることが幕府に報告され、1855(安政2)年に蝦夷地は松前の一部を除いて幕府の管轄となった(第2次蝦夷地上地)。ここから堀を筆頭に3人の奉行が蝦夷地開拓を推し進めることになる。堀はまず、外敵からの攻撃を防ぐため16門の大砲を備えた弁天台場と五稜郭の建設を命じた。それまでの函館奉行所は函館山中腹にあったため、海からの攻撃には耐えられないとして、奉行所を内陸の地(今の五稜郭)に移し、さらに海岸線を死守するため弁天砲台を設置して万全の防御態勢を敷いたのだ。

 五稜郭と弁天砲台の設計と施工は武田斐三郎が陣頭指揮を執った。土塁工事を引き受けたのは蝦夷地開拓の夢を抱き越後から渡道した松川弁之助。松川はその後樺太開発にも携わるが、その地で多くの漁民を病気で失い、また持ち船の難破で財を失うことになる。函館市民は函館港から五稜郭に続く地区を松川町と名付け、その遺徳を偲んでいる。

 箱館は開港し、一気に長崎・横浜と並ぶ近代的国際都市に進化していく。各国領事館が開設され、外国人居留地は賑わい、東北各藩の陣屋や留守居(箱館出張所)が置かれた。産業面では、産物会所や交易会所が開かれ、それに伴い商店街も広がっていく。箱館奉行所は鉱山開発、養蚕機織(はたおり)、陶器や紙の製造、薬園などを奨励し開設し、箱館通宝と呼ばれる地域貨幣も発行されている。さらに「適塾」出身の武田斐三郎を塾長とする洋式学問所「諸術調所(しょじゅつしらべどころ)」も開設し、学問を推奨した。松浦武四郎には蝦夷地全図作成を依頼している。

 筆者は、この壮大なプロジェクトを具体的に短期間で推し進め、さらにその後の北海道開拓の礎を築き上げたのは堀織部正、その人と考えている。

 高田屋の財産没収について前回触れたが、高田屋造船所も閉鎖されることになる。この造船所で働き、その閉鎖に伴い仏壇師になった松前出身の続豊治(つづきとよじ)と、堀との関係について触れてみたい。続はペリー艦隊の箱館来航で、胸に押し止めていた船造りの情熱が目覚めた。夜間、磯船に乗り、ペリー艦隊の蒸気船に近づき図面を作成しようとしたのだ。しかしアメリカ兵につかまり、箱館奉行所のお白州に出される。続は死罪を覚悟するが、その時の調役奉行が堀織部正。続を咎めるどころか洋式帆船の建造を言い渡す。続が最初に造った船が「箱館丸」で、日本初のスクーナー型洋式船。堀は「箱館丸」に乗って江戸に向かった。「これが蝦夷地で造られた洋式船か」と、江戸では大評判になったそうだ。続は83歳で亡くなるまで洋式船を造り続けた。続の跡を継いだのが次男の卯之助。彼は後に「八重の桜」の主人公八重と結婚する同志社大学創始者、新島襄の米国密航を助けた人物である。

 越前(福井県)の大野藩は蝦夷地の幕府直轄に伴い、その開拓と防衛を自藩で担いたいと幕府に申し出る。しかし、その申し出は許されなかった。この時「蝦夷がだめなら北蝦夷(樺太)がある」と、果敢に主張したのが早川弥五左衛門。早川は箱館奉行堀の許可と支援を受け、1861(安政7)年、樺太の鵜城(ウショロ)を本拠に開拓と防衛を任された。厳寒の樺太で、早川の手足は透き通るまでの凍傷に罹るが、勢いを増すロシアの南下を食い止めなければならないとの覚悟で開拓にあたった。しかし、理解のあった藩主が隠居し、上役だった総督も亡くなり、莫大な費用と大きな犠牲を払った北蝦夷地は明治政府に返還され開拓事業は終止符を打った。早川の北蝦夷地での努力と功績は後に認められ、開拓神社に祀られている。

 次に堀が着手したのが石狩地方の開拓。堀は敏腕の荒井金助を江戸幕府より招き、石狩地方開発に任じた。当時、荒井は上役と意見が合わず、江戸で赤貧を洗う生活をしていたが、その荒井を認め蝦夷地に呼んだのが堀である。

 北海道史の大家・高倉新一郎先生は「今日の札幌は荒井の施策でその基礎が造られた」と評している。荒井はイシカリ役場長官としてこの地の開拓に奔走。アイヌ民族を撫育(愛情を以て大事に育てる)し、請負人独占だった漁場を開放して「直捌き(じかさばき)」にした。さらに自ら家族や使用人を率い「新井村(後に荒井村)」を今の篠路に開拓している。

 新井村の開拓に当たっては、その調査能力と土地勘に優れた早山清太郎の意見を取り入れている。早山は道南以北では初めて米作に取り組んで見事に成功しており、生涯一農夫として札幌村の開発に貢献している。

 荒井はさらに、苫小牧から札幌に至る札幌越新道の敷設にも取り組んでいる。札幌に至るには、今の豊平川を渡らなければならず、荒井は部下2人とその家族を両岸に住まわせ、渡守を担わせた。その2人こそ志村一鉄と吉田茂八で、札幌の開祖として南5条の豊平川両岸にその石碑が建てられている。

 荒井は堀が江戸に戻った後、後任の役人に冷遇され箱館・室蘭に左遷される。函館で病気となり療養中であったが、五稜郭の堀でその死体が見つかった。息子の嫁が荒井の遺徳を偲ぶため寺院を寄贈し、荒井と早山清太郎の墓石にその功徳を刻んでいる(旧龍雲寺は札幌開拓村に再建され、篠路に新龍雲寺が建てられた)。

 堀はさらに、二宮尊徳に蝦夷地現地での開拓指導を懇請するが、二宮は重い病に伏しており、死後その弟子である大友亀太郎が札幌村開拓に取り組んだ。まず大友が着手したのは用水路の構築で、今の札幌市南6条鴨鴨川あたりから水を引き、東区北13条東6丁目の札幌村役宅裏までの用水路を造った。この用水路は大友堀といわれていたが、明治7年に創成川と改められた。島義勇が北海道本府を札幌に構想した時、大友堀は市街を東西に分ける起点とされた。大友は、13年にわたり開拓した札幌元村と苗穂村を開拓使に引き渡し、故郷の大友(神奈川県小田原市)で64歳の生涯を閉じている。札幌村はその後苗穂、丘珠を含め“札幌市東区”に発展していくことになる。

 堀は箱館奉行を4年務めた後、幕府の外国奉行(後に神奈川奉行兼任)となる。彼は日本を代表して諸外国との交渉に当たっていたが、プロイセンとの条約締結に際し、老中から裏交渉の嫌疑をかけられる。堀は一切の弁明もせず、自らの命を絶った。享年43歳。武田斐三郎、榎本武揚、島義勇、続豊治、松浦武四郎、荒井金助、早川弥五左衛門……。なんと多くの「北海道開拓の先覚者達」が堀の周りに集ったことか。見事なチームを率いた堀の人物の大きさに圧倒される思いだ。

 11月20日、13万8000人の渦の中、日本ハムファイターズ「日本一パレード」の沿道にファンの1人として加わった。私は「群衆」の中ほどにいたため、オープンカーに乗った栗山英樹監督や中田翔選手を見ることは出来なかったが、そのあとに続く大型車に乗った陽や大谷選手達の“爆ぜる”笑顔が飛び込んできた。なんと見事なチームを栗山監督は率いたことだろう。