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北海道開拓の先覚者達 総集編―1更新日:2016年11月15日

    

 2013(平成25)年6月1日から本ブログ「北海道開拓の先覚者達」を書き始め、前回で81回を数えるに至りました。よくぞ書き続けたものと、我ながら驚いております。基本的には各回(場合によってはその続編)で完結するように書いてきましたが、全体のつながりがよく理解できないとの声も耳にすることがありましたので、今回から4~5回の予定で総集編として、先覚者達の関係、時代背景などを線と面でお伝えしたいと思います。

  ◇  ◇  ◇  ◇

「北海道神宮末社開拓神社」の鳥居前には「北海道の厳しい自然条件を克服しての開拓は、先人の艱難辛苦の足跡抜きには考えられません。私たちは、この偉大な事績をしっかり見直し開拓の精神を受け継ぐ使命があります。」と記されている。2018年(明後年)、北海道と命名されてから150年を迎えるこの時期、歴史を追って先覚者達の関係をつないでいきたい。

 縄文時代、続縄文時代、擦文時代を経て、近世の前半まで、北海道はアイヌ民族の生活の場だった。白老のポロトコタンには2020年、象徴空間としてアイヌ民族博物館の開館が予定されている。アイヌ民族と日本民族の友好と共生の象徴として造られるとのことだが、果たして観光を主目的にした博物館でいいのだろうか。アイヌ民族の苦難の歴史も事実に基づいて展示されて然るべきだろう。

「アイヌ神謡集」を遺して19歳で亡くなった知里幸恵は「原始林の中に溢れる生命。森にも川にも数えきれない命が溢れ……。アイヌたちは、自然界をカムイ(神)として尊び、祈り、泣き、怒り、喜び、まことに豊かな暮らしを送ってきました」と、北海道(蝦夷地)の自然と生活を表現している。

 15世紀半ば、東北の南部氏に追われた安東氏一門を中心に、渡島半島南部に和人(日本人)が進出。アイヌ民族との直接交易が始まる。蝦夷地には当時50万人ほどのアイヌ民族が住んでいた。その中には、自分たちの生活の場に和人が進出することを快く思わない者たちもいたのだろう。アイヌの青年が小刀で和人に殺害されたことを機に彼らは立ち上がり、コシャマイン親子率いる1万の軍が和人地に攻め入る。アイヌの蜂起軍は渡島半島南部に構築された12の和人館のうち10館を次々に落とし、上ノ国の花沢館に攻め入った。

 ここに寄宿していたのが、越後出身の武田信広。彼は和人軍の先頭に立ち、コシャマイン親子をおびきよせて殺害する。これがアイヌ三大蜂起の「コシャマインの戦い」だ。武田は上ノ国の守護職、蠣崎氏に請われて養子となり、蠣崎信広を名乗る。

 その4代後が蠣崎康廣。後に松前を名乗り、松前藩の太祖と呼ばれる人物だ。松前神社に祀られている康廣は、機転が利き戦略家(ある面ずる賢い)の面を持っていた。まず豊臣秀吉に取り入って「もし我に背くならば太閤様は数万の軍勢で討伐する」旨の朱印状をアイヌの乙名(酋長)たちに告げて、彼らを屈服させる。さらに徳川家康から「蝦夷地の出入りは松前藩の許可が要る」との黒印状を拝受。これにより場所請負人制度が発足し、江差・松前は繁栄を極めることになる。「江差の5月は江戸にもない」「元日、節句の有様は江戸に劣らず」といわれ、17世紀末から18世紀初頭の元禄時代には、松前の和人地に2万6000人が居住するまでに繁栄していった。

 その一方、未曾有の災害となった1640年の駒ヶ岳噴火、1663年の有珠岳噴火で蝦夷地は疲弊。藩財政が悪化すると、松前藩はアイヌとの交易条件を大幅に改悪する。たとえば干鮭100匹で60キロの米と交換していたものを30キロ、そして10キロにまで減らした。これに憤激したアイヌはシャクシャインを先頭に2000人の軍勢で和人を襲撃。西は古平から増毛、東は登別から白糠にかけて一斉に蜂起した。松前藩はたまらず停戦するが、和睦の宴でシャクシャインは毒殺されてしまい、乱は鎮圧されてしまった。これを「シャクシャインの戦い」と呼ぶ。新ひだか町静内真歌では毎年「シャクシャイン祭り」が開催され、全道からアイヌの方々が参集し英雄シャクシャインを追悼している。

 続いて1789年(フランス革命の年)には「クナシリ・メナシの戦い」が起きる。妻を請負人飛騨屋の番人に殺されたマキメリが、仲間とともに和人71人を殺害。松前藩は南部藩の援軍とともに蜂起軍の討伐に向かう。すると、戦況が劣勢と判断した各地の乙名たちが、蜂起した若者38人を松前藩に差し出し、37人が斬首された。

 松前藩は蜂起を未然に防いだ乙名たちを慰労すべく、松前城に招いて絹の着物を着せた姿を、家老の蠣崎波響に描かせる。この絵が「夷酋列像」と呼ばれるもの。乙名たちが着たのは「蝦夷錦」と呼ばれる明国の絹織物だ。松前藩は戦乱を引き起こした汚名をそそぐため、この「夷酋列像」を幕府や本土の大名たちに見せ、いかに松前藩がアイヌと親密な関係を築いているかを訴え、すべての罪を場所請負人飛騨屋久兵衛に被せて飛騨屋の財産を没収した。

 だが松前藩の悪行は幕府がその後に派遣した調査隊によって明らかとなり、1799年には東蝦夷地が、1807年には西蝦夷地が幕府に取り上げられ、松前藩は奥羽に移封されることになる。

 さて、この当時の中国大陸では、元を滅ぼした明がアムール川(黒竜江)まで勢力を伸ばし、交易の場を設けていた。明から派遣された役人は蝦夷地・樺太からの毛皮などを三丹人に上納させ、下賜品として民国人の古着である絹織物を与えた。これが樺太・蝦夷地のアイヌを通して松前まで渡り、蝦夷錦と呼ばれて珍重されたのだ。間宮林蔵は1809年に間宮海峡を確認した後、黒竜江下流のデレンを訪れ、帰国後に交易の様子を「東韃紀行(とうだつきこう)」に記した。そこには交易の場も登場している。大陸から樺太・千島・宗谷・留萌・余市・松前まで「北のシルクロード」とも呼ばれる交易ルートができていたのだ。そしてその主役は交易民族であるアイヌであった。

 日本地理学の特筆すべき事項として、間宮林蔵が1800年に蝦夷地で伊能忠敬と出会ったことが挙げられる。伊能は人生50年の時代に51歳で高橋至時に師事して天文学を学び、歴史上の大作「大日本沿海予地全図」を作成した人物。その最初の測量の地が蝦夷地だった。伊能は蝦夷地測量を通じ、当時としては世界でも比類のない正確さで地球の円周を計測している。間宮に出会った伊能はその測量手法を教えた。「大日本沿海予地全図」の蝦夷地部分は間宮が測量し、書き上げたものと言われている。

 なお、間宮とともに樺太を縦断し、樺太が島であることを認めたのが、間宮の上役、松田伝十郎。松田は松前藩が蝦夷錦を手に入れるため、アイヌを脅して三丹人と交易させている状況を知って義憤の念に駆られた。樺太探検後の1809年、松田は幕府の樺太詰役となり、三丹人と交渉を繰り返して毛皮2500枚を130両で買い付けることで決着をつけ、三丹人の捕縛からアイヌを解放している。

 一方、松前藩は一時奥羽に移封されたが、後に再度全蝦夷地を管轄することになる。松前藩から忌み嫌われていた松田は宗谷詰めを解任され、郷里に引き籠る。その時の句が「骨折りし二十四年の栗餅を 黄粉くるめて鷹に取られる」。さぞや悔しかったことだろう。

 次回は北海道開発のグランドデザインを描いた本多利明と弟子の最上徳内、幕府蝦夷地巡見隊の先遣隊長であった近藤重蔵、そして高田屋嘉兵衛といった先覚者たちについて、その関係を探っていきたい。

 一気に寒さが増し遠くの山には頂に雪が見られる時期になったが、円山公園の紅葉も今が見頃。毎朝の散策が楽しみである。