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Interview

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父から兄弟、そして息子へつなぐ
「人を笑顔にする菓子づくり」
掲載号:2016年5月

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堀昭 北菓楼社長

大ヒット商品「北海道開拓おかき」で知られる「北菓楼」。砂川市内の小さな菓子屋から100億円企業へ成長を遂げた裏には、父の背中を見て育った兄弟の絆と信念があった。今日の発展へと続く道のりを、社長の堀昭氏に聞いた。

兄弟ゲンカをするとすごく怒られた

堀昭氏は1953年砂川市生まれ。東北薬科大学卒業後の75年から武田薬品工業で勤務し、81年に実家の堀製菓へ兄の均氏とともに入社。翌年にホリを、92年には北菓楼をそれぞれ設立した。その後は均氏を支え、2007年にはホリ社長へ就任。10年に均氏が急逝した後は、同社の先頭に立ってグループを牽引する。15年12月に堀製菓をホリホールディングスに改組し、グループ7社の売り上げは12年に100億円を超えた。

――3人兄弟の末っ子として生まれ、菓子職人である父・貞雄さん(1998年死去)の背中を見て育ちました。

 父は、私が朝起きたころにはもう菓子の営業に出かけていて、夜は遅くまで菓子をつくっていました。人の倍は働いていましたね。

――父親としての貞雄さんは。

 バイタリティーがあって、努力家。そして本当に誠実な人でした。一方で、私たち兄弟には結構厳しかった。よく言われていたのは「兄弟仲良くしろ」ということ。兄弟ゲンカをするとすごく怒られました。私と2番目の兄の均で家を継いだ後も、兄と私が衝突した時は「ケンカだけはしちゃダメだ」と。兄弟の仲が良い、というのが家族の一番の財産だというのが、父の教えでした。

――地元の砂川市では〝堀せんべい〟と呼ばれて親しまれていました。店の周りはいつも甘いにおいがしていたそうですね。

 私自身、同級生に「堀くんの体はいいにおいがする」と言われていました(笑)。当時は店が小学校の近くにあって、学校帰りに友人がよく立ち寄ってくれて。父はそれを見て「お菓子屋はいいな」とよく言っていました。「菓子は人を笑顔にするし、モノをつくれる楽しみがある。人様に喜んでもらえる仕事は、そうそうないんだ」と。

――薬学系の大学を出て薬剤師の免許を取得し、製薬会社に勤務していますね。

 これも父の持論で「そば屋と薬局は潰れない」というのがあるんです。商売はいつどうなるかわからないけど、手に職があれば食べていける。だから兄弟3人とも薬剤師の資格を持っています。

――家業を継いでほしいとは思っていなかったのでしょうか。

 私たちには「会社勤めをしていたほうが楽だから、自分たちの生活をしなさい」とは言っていました。

――それでも、後を継いだ理由は。

 蛙の子は蛙で、どうしても〝お菓子屋さん〟をやってみたかった。父と同じ商売人としての血が騒いだということかもしれません。父が築いた店がなくなるのが残念でもあった。それにもし商売が失敗しても、薬剤師の資格はあるわけだし、何とかなるという気持ちもありましたね。

朝5時から父や兄と3人で会議

――後を継いでから、兄の均さんと最初に取りかかったことは。

 まずは営業です。北海道を2つに分けて、砂川から北は兄が、南は私が担当していました。たとえば函館に行く時は、おにぎりを持っていって、朝8時から朝市で営業。夜9時、10時には日帰りで砂川に戻るという生活です。以前は父が、同じように日帰りで遠方まで営業していたのを覚えています。

――当初のヒット商品は。

 買っていただいた土産物屋さんごとに焼き印をつくって、大判のせんべいに押したんです。たとえば小樽水族館とか、月形刑務所とか。焼き印だけ変えればいろいろなところの銘菓になります。アイデアマンだった父の発案です。北菓楼のバウムクーヘン「妖精の森」には「誕生日おめでとう」などの焼き印を押せます。父のアイデアが今も残っているというわけです。

――貞雄さんは均さんと昭さんの間に立って〝交通整理〟されたそうですね。

 当時、毎朝5時に3人で会議をして、それから営業に出ていました。7時か8時にはもう工場が稼働するので、早朝しか時間が取れなかったんです。でも父と兄とあれこれ話をしているのは、楽しかった。兄と私がそれぞれ思うことを話し、それに対して父が意見を言う。そして課題を整理してくれていました。

――均さんがご存命の時は、最終判断はすべて均さんだったそうですね。

 兄が社長である以上はその意見を、ということにしないと社員が困りますから。父がいるころから、社員も兄と私のどちらの意見を聞けばいいのか、と困っていたそうです。でも、兄弟仲良くという父の教えもありましたし、長幼の序を守ったというわけです。

兄の場合は、何か物事を決める際に自分で理由をつけて、スパッと決められる性格でした。私は逆に優柔不断なところがありましたから。兄が会長、私が社長になった時も、なるべく兄の意見を尊重していました。

私も兄も、間違ったことを言っているわけではなく、考え方が違うだけでした。私は最終的にジャッジするのはお客さまであると思っていましたから。その点では、兄の意見を尊重してよかったのかなと思います。

札幌進出は北菓楼設立時からの悲願

――「夕張メロンピュアゼリー」のヒットで、ホリの名前が世の中に知られるようになりました。

 北海道の原点に返った商品をつくりたいと考えた時に、夕張メロンだろうと考えたのがきっかけです。

――1992年に、自社商品の直接販売を目指して北菓楼を設立しました。

 その当時、観光客の多い夏が書き入れ時でしたが、冬は逆に売り上げが厳しかった。そこで「逆もまた真なり」と考えたんです。たとえば、日持ちのするお土産菓子ではなく日持ちのしない生菓子を出す。問屋さんに卸すのではなくて直接売る。原価がかかってもいいから、より手間をかけるという考え方です。

昔は「甘くておいしい」と言われていました。でも今は「甘過ぎず、くどくないからおいしい」と言われます。原点に返るという意味でも、お客さまに直接商品への反応を聞けるメリットがありました。

――北菓楼といえば大ヒット商品の「北海道開拓おかき」。「えりも昆布」「増毛甘エビ」など、原料へのこだわりを感じます。

 本当に良い物と出合うという時は、ちょうどいい時期にいい人との出会いがある。そして今に至るということを、つくづく感じています。

――今年3月18日には「北菓楼札幌本館」(札幌市中央区北1条西5丁目)がオープンしました。

 北菓楼を設立した25年前から、いつかは札幌にお店
を出したいと思っていました。銀行さんに場所を探してもらうこともありましたが、見つからなかったんです。ですが今回「北海道立文書館別館」を手に入れられました。これだけの好立地で、しかも歴史や文化が詰まっている場所。これも縁なのだと思います。

――基本デザインを建築家の安藤忠雄さん、施工はこの建物を紹介した竹中工務店が手がけています。

 14年に建物を購入した後、事前調査と設計に8カ月かけた結果、南と西の壁を残して残りは解体することになりました。残した壁の補強と解体に8カ月、そして新しい建物の建築に8カ月でちょうど2年かかっています。安藤先生には私たちの「古い建物を残しながら活用したい」という思いに共感してもらい、引き受けていただきました。本当にすばらしい建物になったと思っています。

社員には70歳まで働いてもらいたい

――10年に会長だった均さんが急逝されました。

 突然のことで、取引先や仕入れ先、銀行さん、そして何より社員のみなさんが「この会社はどうなってしまうのか」と心配したわけです。とくに兄は営業を担当していましたから、売り上げが落ちて、給料が支払われなくなったらどうしよう、と。それで「クレド」というものをつくりました。クレドとは、信条や掟という意味の言葉です。

――経営方針や行動目標が書かれているものですね。

 パートさんを含め社員全員に配りました。社員が心を1つにして、頑張ってほしいと考えたからです。かつて兄や父が残した語録も載せました。父や兄を知る社員に、2人の考えは今も続いていることを伝えたかったんです。

――12年12月期に、均さんとともに目指していた売上高100億円を超えました。今後の展望は。

 当社はメーカーですから、今の工場をもっとレベルアップしたいと思っています。包装や段ボールへの箱詰めなどの単純作業や、負担がかかる工程が工場内にはまだあります。今年はロボットを3台購入して、そういった工程を置き換えます。そうすることで、たとえば腱鞘炎になるとか、腰が痛くなるとか、社員の負担を減らすことができます。働きやすい現場にして、その代わりに1年でも長く勤めてもらいたい。

今、当社には78歳の現役社員がいます。とにかくまじめでみんなが信頼している人です。社員には60歳で一度定年になった後も、70歳まで勤めてくださいと言っているんです。いよいよ退職する時には「この会社に勤めて良かった」と思ってもらえたらいい。それが会社にとって一番の勲章だと私は思っています。

最近は「海外進出しないのか」と聞かれます。でも私はそれより、社員をもっともっと育てていきたい。社員を育てることで、もっと強い会社にしていくのが私の思いです。

――北菓楼札幌本館の開業セレモニーでは、昭さんの長男で取締役の太一さんと、均さんの次男、幹さんが紹介されました。

 兄とは、自分たちの息子を必ず1人ずつ会社に入れようという約束をしていました。幹は昨年入社したばかりですが、太一とともに、2人仲良くケンカしないよう、父や兄の遺志を私が伝えていきます。昨年は朝5時から、みっちりと教えました。

=ききて/清水大輔=