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Interview

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医療費抑制の切り札はジェネリックだ掲載号:2014年5月

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三津原博 日本調剤社長

 業界で唯一、北海道から沖縄県まで全都道府県に店舗を持つ調剤薬局大手の「日本調剤」。その創業地は札幌だ。自らを「医薬分業命の男」と称する三津原博社長。なぜ札幌から分業の狼煙をあげたのか。そして、日本の医療をどう変えたいと思っているのか。

大手製薬会社社員として札幌に赴任

――札幌が創業地なんですね。
三津原 1980年、札幌の山鼻地区に調剤薬局を開業したのが始まりです。
――ご出身は。
三津原 東京です。大学は日本大学経済学部に入ったんですが、学生運動の激化で授業はほとんどおこなわれない。そんなことが2年くらい続いていたので中退し、受験をし直して昭和薬科大学に入りました。
――なぜ薬科大に。
三津原 手に職をつけないと食べていけませんから。それで薬剤師になりました。
――卒業後は。
三津原 武田薬品工業に就職しました。1974年です。当時、武田は薬剤師が医薬情報担当者、いわゆるMRとして病院やクリニックを回っていました。私もそうした営業職に就くのですが、最初の赴任地が札幌だったんです。
i2――札幌と聞いたときは。
三津原 札幌は北海道の中でも開かれたまちで、東京に近い感覚。そういう意味ではほぼ希望の勤務地でした。そこで6年半、札幌とその近郊の医療機関に一生懸命、営業活動しました。
――起業のきっかけは。
三津原 当時、薬害訴訟が社会問題になっていました。武田もスモン訴訟を抱えていた。薬害の被害者たちが処方の内容を問いただそうとしても、病院側は処方箋を一切公開しない。薬品メーカーも沈黙を押し通す。自分たちが飲ませておいて、あまりにも無責任じゃないかと怒りがこみ上げてきましてね。薬剤師が医師と対等に渡り合え、処方をチェックできていたら、こうした悲劇は減ります。そこで調剤部門を病院から分離させる「医薬分業」を目指し、独立したんです。
――そもそも日本に医薬分業という考え方はあったんですか。
三津原 考え方自体は、ずっと昔からありました。しかし、医師会が反対してなかなか進まなかった。
――理由は薬価差益。
三津原 そうです。薬には公定価格と仕入れ価格の間に差があります。薬を出せば出すほど差益で儲けられる。医者が院内調剤を手放すわけがありません。
――行政当局は。
三津原 当然、厚生省は差益を圧縮させて薬価差を出せないようにする方向でやってきました。同時に処方箋発行料を100円から500円に引き上げるというような経済誘導もしてきましたが、それでもうまくいきませんでした。
――80年当時の分業率はどれくらいでしたか。
三津原 2?3%くらい。それから34年たっていますが、現在でも67%です。
――そんな状況での開業で、困難も多かったのでは。
三津原 まずお金がない。銀行も貸してくれない。預金が200万円。家賃5万円のところから始めました。
――どう打開を。
三津原 小児科、耳鼻科、眼科、皮膚科というところは、そんなに薬を使わない。そういうところから分業の提案をしていきました。実際、こうした診療科から日本の医薬分業は進みました。それと並行して、大蔵省が医師優遇税制にメスを入れ始めた。医師は売り上げがいくらあっても72%の経費が認められていた。これを国は段階的に撤廃していったのです。もちろん、現在も残っているのですが、売り上げの低いほうが適用されて得になる。たとえば、内科の開業医の場合、分業することで約半分の売り上げがなくなる。ただし処方箋発行料が入るので、それを仮に15%とすると売り上げのダウンは35%。すると優遇税制が適用になり得をする。こうしたシミュレーションを見せて説明すると、やろうかという医師がたくさん出てきたのです。

自分でジェネリックメーカーを設立

――開業から7年後には東京支店を出しています。
三津原 会社を立ち上げるときに「日本調剤」という商標をとりました。「三津原調剤」なんかにしたら、ちょっと儲かったらやめてしまうかもしれない。そうしないために自分自身に責任を課すというのかな。会社設立の趣旨は、医薬分業を日本の津々浦々まで広げること。また、社業の領域を曖昧にしてしまうと、中心軸がブレることがある。薬剤師という自分の原点を忘れない。だから調剤という言葉も入れた。開業から7年で東京進出というのは、確かに早いのかもしれません。でも、目標は全国に医薬分業を広めることですから当然のステップでした。
――日本調剤の薬局は大きな病院の門前が多いですが、現在の店舗数は。
三津原 47都道府県すべてにあって、3月末現在で494店舗。北海道には43店舗あります。私は「医薬分業命の男」(笑)。いま65歳であと何年働けるかわかりませんが、なるべく早く分業率を100%にしたい。
――そのためには何が必要だと思われますか。
三津原 4月からの診療報酬改定で「ジェネリック」という新しい項目ができました。いわゆる後発薬。先発薬の特許の切れたものは半額以下になる。そうなると薬価差も半額以下。院内調剤のメリットはさらに薄れます。勢い分業は進む。ジェネリックを命がけでやることによって分業率は上がると思っています。
――2005年にジェネリックの製薬会社を設立されていますね。
三津原 いまではジェネリックという言葉も「後発薬」という意味で一般的になってきましたが、まだまだ聞きなれない05年に「日本ジェネリック」という会社を立ち上げました。ジェネリックの本来の意味は、「一般的」とか「共通している」です。
――確かに当時、そんな言葉はなかったと思います。ネーミングが抜群ですね。
三津原 先進国でジェネリックをやっていないのは日本だけです。ご存じのように、日本の社会保障費は国家予算の半分近くにまでなっている。やはり医療費は下げなければならない。ジェネリックは医療費の抑制の切り札にもなります。
――製薬会社をつくるという考えはいつから。
三津原 ジェネリックメーカーは、先発メーカーからみると敵です。言葉は悪いけど、みんなでいじめていた。そういうことがあって、ジェネリックメーカーは正規の卸の流通ルートをもてなかったんです。結局、自分で売らなければならず、直販メーカーになってしまう。これでは会社も大きくなれない。本当の意味でジェネリックが医療の表舞台に立って、医薬品産業の中でそれなりの地位を占めていくためには、いままでのジェネリックメーカーでは限界があった。こうした現状を打破するには、まったく新しい切り口で、ゼロからジェネリックメーカーをつくる必要がある。これも自分でやらなければならないと思って、15年くらい前からジェネリックメーカーをどう立ち上げるかを考えていました。
――なかなかそういう発想は出てきません。
三津原 私はちょっと変わってますから(笑)。6年前、茨城県つくば市にファイザー製薬が持っていた研究所を買いました。建物で1万坪。そこを改装して工場にしました。北棟と南棟があって、北棟は稼働中。商品自体は600品目ありますが、自分で製造しているのは33品目。南棟は7月に完成します。
――設立から10年たたずして600品目ですか。
三津原 すでに内服薬の98%くらいは網羅しています。ただ最後の2%を埋めるのに、あと400?500品目は必要。最終的には1000品目にしようと思っています。
先ほども申し上げましたが、ジェネリックメーカーと先発メーカーの間には、いろんな軋轢がありました。いままでのジェネリックのメンバーでは、その軋轢を超えられなかった。それで日本ジェネリックに商品を提供してくれたところもあります。日本ジェネリックにとって、各ジェネリックメーカーはサプライヤーでありOEMの供給者。うちがデパートで売り場の提供をしているイメージでしょうか。私どもは全国の正規卸、道内でいえば、ほくやくやモロオなど、すべて取り引きがあります。そして、日本調剤も卸から平等に自分の商品を買っています。
――自社から直接卸すことはないと。
三津原 ありません。卸を通して各店に持ってきてもらう。マージンを払って。そうすると卸も敵じゃありません。もともと日本調剤は卸にとってお得意さま。そこが各ジェネリックメーカーが供給する日本ジェネリックブランドの薬を買うんですから嫌とは言えないですよね。

ジェネリックをブラッシュアップ

――ジェネリックを全国に流通させるために、あえて自社製品も卸を通すと。
三津原 日本ジェネリックが大きくなるためには、共存共栄を図らなければやっていけません。それでいいと思っているし、正規卸に扱ってもらうことでジェネリックが医療の世界の中で正当に認知される一番いいやり方だと信じています。
――決算発表にはまだ間があり、正確な数字は精査中だと思いますが、14年3月期の業績予想は、前期より270億円の増収を見込まれていますね。
三津原 もっといくかもしれないと思っています。私どもはジェネリックを一生懸命やってきて、まだ正確な数字は出ていませんが、恐らく3月末で全取り扱いの65%くらいはジェネリックになったと思います。昨年4月に製薬メーカーも1社買収しました。そういう案件はこれからもあるでしょう。今後もジェネリックをどんどんブラッシュアップしていきます。その分が上乗せされてきます。
――日本ジェネリックの伸長が改定のマイナスをカバーすると。
三津原 そうなります。
――三津原さんといえば、役員報酬について何かと話題になりました。
三津原 私はあまり気にしないというかな。もともと脱サラでつくった個人商店。お金がなくて苦労しました。銀行にいったって保証能力がないから貸してくれない。どうしたら保証能力がつきますかと聞いたら、あなたが給料をたくさん取ったら貸しますよと。それでだんだん増えていった。
いまさら極端には下げられません。そんなことをしたら、かえって信用不安になってしまう(笑)。もう借金もないし、子どもも育ったからお金もかからない。全部、貯金してあります。あとは相続です。私が貯金したお金を全部、相続税として国に納めなさいと家族には言ってあります。国から儲けさせていただいたのですから、最後は国にお返しします。

=ききて/鈴木正紀=