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北海道開拓の先覚者達 総集編―6更新日:2017年02月15日

    

 気骨にあふれ、我慢強く、教養を身に着けた東北地方の士族たち。戊辰戦争で敗れた奥羽越連合の諸藩は、藩士の生き残りと北方の守りで汚名をそそごうとの心意気で北海道に移住し、その開拓に大きく貢献した。

「鳥羽伏見の戦い」の1カ月後の1868(慶応4)年3月、朝廷は会津を攻め落とすべく奥羽鎮撫総督を仙台に赴かせ、仙台藩主に会津討伐の参戦を命じた。しかし、藩主の伊達慶那は会津への寛大な処置を願い、参戦をためらっていた。奥羽鎮撫総督の下参謀が長州藩の下級藩士、世良修蔵。多少読み書きのできる漁師出身で品性のかけらもない人物と言われている。世良は伊達藩主の懇請をことごとく退けるばかりでなく、藩主に無礼極まる態度を取り続けた。さらに会津討伐軍本陣に「奥州皆敵」との密書を送る。密書は仙台藩の手に落ちることとなり、激高した仙台藩士は世良を殺害する。ここに、仙台藩、米沢藩を中心に27藩が結集し「奥羽越列藩同盟」が結成された。兵力では互角であったが、アームストロング砲を主力とする新政府軍に対し、火縄銃や槍・刀では歯が立たず、列藩同盟は次々に敗れまた脱落していった。

 戊辰戦争終了後の沙汰は極めて厳しいものだった。仙台藩が60万石から28万石に減封されたのはまだましなほうで、亘理伊達藩は1万2千石から65石、岩出山伊達藩は1万5千石から58石、そして白石伊達藩は1万8千石から55石とほぼ改易に近い状態となった。さらには南部藩などに移封され、所領の明け渡しを命じられた。

「住むに家なし」「食うに米なし」「先行き知れず」。各藩とも、家族を含めると数千人が路頭に迷うこととなった。当時、新政府は北辺(ロシア)の南進に脅威を抱き、また新たな国土開拓のため蝦夷地開拓計画を推し進めていた。この計画に沿うことが藩士及び家族の生き残る道。そう考えた伊達亘理藩家老の田村顕允(あきまさ)、岩出山伊達藩家老の吾妻謙、白石藩家老の佐藤孝郷(たかさと)はそれぞれ蝦夷地への移住を新政府に願い出る。許可を得て、亘理藩は胆振国有珠郡(伊達市)、岩出山藩は聚富(石狩市厚田区)から当別、白石藩は幌別(登別)、白石(札幌市白石区)、手稲(札幌市手稲区)に移住することとなる。

 1870(明治3)年3月、亘理藩の第1次移住者250人は室蘭港に到着。苦難の歴史が始まった。アイヌの人たちに背負われ上陸した婦女子は、さめざめと涙を流したという。移住費用は藩主・伊達邦成が持てる家財すべてを売って調達し、また第3次移住者の中には藩主の義理の母親で「伊達家最後の姫」といわれた宗藩出身の貞操院保子も加わっていた。藩主を中心に藩を挙げての移住は、二度と郷里には戻らないという覚悟がうかがわれる。

 開拓着手から10年、様々な苦労を克服し、西洋農具による大規模農業、西洋果樹の栽培、製糖工場・製麻工場・精油工場・製藍工場の建設、和牛の飼育等に事業を拡大し、開拓者は1800人を超える規模になった。1892(明治25)年、伊達邦成には男爵の位が授けられ、1900(明治33)年には近隣の5ヶ村を併せ、伊達村が誕生し今日の伊達市に発展している。

「伊達邦成の有珠伊達開拓と比べ、その辛苦においてこれに倍するものは伊達邦直の石狩当別の開墾である」と高倉新一郎氏が述べているように、岩出山伊達藩藩士の移住は一層の困難を伴った。伊達邦直は亘理藩藩主・伊達邦成の実の兄。邦直は藩校「有備館」に藩士を集め開拓がいかに困難であるかを伝えた上、同志を募った。第1次移住団161人を乗せた船は荒れ狂う海に翻弄され、また濃霧で針路を失いながらも、ついに室蘭に到着した。室蘭で給水している間に船は出帆してしまい、残された移住者たちは徒歩で目的地の聚富に向かわなければならなかった。

 ようやくたどり着いた聚富は砂地で、持参した種子も吹き付ける風で吹き飛ばされてしまう。勿論、種子は発芽することなく、さらに米を積んだ船が遭難し食料は尽きてしまう。家老の吾妻謙は数人を引き連れ、新たな地を求めて石狩川下流を調査し、遂に当別の地に行き着く。この地は地味豊かだった。開拓は3次にわたり、次第に成果が上がっていった。

「日本海の厳しい潮風に耐えて咲くハマナスにも似ている」と、版画集「開拓者」を発行した画家で岩出山在住の小野寺栄氏は移住者たちを讃えている。岩出山伊達藩藩主伊達邦直は北海道開拓の功が認められ、没後の明治25年、孫の正一に男爵の位が授けられた。

代々片倉小十郎の名を継いだ白石伊達藩も戊辰戦争後、家禄を数百分の一に減らされ、家臣1402人、家族を含め7495人は路頭に迷うまでに追い込まれる。1869(明治2)年9月、蝦夷地移住を申請したのに対し政府は幌別郡移住支配を命じた。政府は自費移住を指示し、3000両の移住費用貸し付け申請も許可しなかった。第1次、第2次でそれぞれ17戸、45戸が幌別(現登別)に移住するが、食料船の難破に見舞われ鹿肉を食してしのぐなどの難儀にも見舞われた。そのような中でも、道路の大修理や神社の建立、仮教育所の建設など開拓を進めていった。しかし開拓の困窮に耐えかねず1877(明治10)年、藩主の息子・伊達景範など30人が突然白石(札幌)に移り住むことになった。残った移住者たちは動揺し、景範の息子伊達景光を白石(宮城)から招く。景光は幌別開拓の先頭に立って奮闘し、1898(明治31)年にはその功が認められて男爵を与えられる。

 さて、白石藩移住第3陣600人を率い札幌に渡ったのは家老職の佐藤孝郷。当時佐藤は20歳という若さであった。佐藤は頭脳明晰で卓越した判断力を持ち、政府・県の要人からも高く評価された人物。政府および開拓使は第3次の移住に対し、貫属扱い(渡航費用並びに開拓に関わる費用は国で面倒を見る)の特別待遇を与えた。佐藤の人物を高く認めたこととともに、それまでの移住の困難さを配慮したのだろうと言われている。佐藤の乗った咸臨丸は木古内沖で座礁するものの、何とか全員が助かり小樽・銭函を経由して石狩の番屋に辿り着く。当時の開拓使大判官は岩村通俊で、「雪が融ける春まで石狩におり、その後開拓に着手するように」と指示するが、「故郷を捨てて来た以上、何としても早く開拓に取りかかりたい」と、最月寒(もつきさっぷ:豊平川の東)で住居の建設に取り組む。彼らの奮闘ぶりを見、岩村判官はこの地を故郷にちなんで「白石村」と名付けた。

 第3次600人の移住者の内、241人はしばらく銭函に止まったうえで、岩村判官の指示で上手稲地区の開拓に取り組んだ。この開拓を指揮したのは白石藩家老添役の三木勉。移住した地は今の手稲区の発祥の地と言われている。

 佐藤孝郷、三木勉共に移住後子弟の教育に取り組み、白石には「善俗堂学問所」(公立白石小学校の前身)、上手稲に「「時習館」(上手稲小学校を経て公立手稲東小学校)が設立された。

 1871(明治4)年7月、廃藩置県が施行されると従来の藩はほぼ解体され、武士もその大半が士族となった。しかし、官職に就く者以外は収入の道が途絶え、士族の多くは農業や商業に携わらなければならなかった。慣れない仕事で士族たちは失業し疲弊していった。明治政府はこのような士族を北海道に開拓移住させるべく「移住士族取扱い規則」を制定し、屯田兵制度が始まった。制度の初期、琴似や山鼻の兵村に移り住んだ屯田兵は東北諸藩の旧藩士が中心であった。その後の新琴似や篠路兵村には九州や中四国の旧藩士が入植してきた。

 いずれも、武士としての教養と気骨に加え、故郷を捨て不退転の覚悟で酷寒の地の開墾と国土防衛に取り組み、北海道開拓に大きく貢献した。地下鉄琴似駅近くに再建された兵屋が、当時のままの姿を遺している。居間の正面には明治天皇の写真と並んで一幅の書が飾られている。

明治初期今思起古来未踏此荒野
(今思い起こすに明治の初期この地は古来より未踏の荒野だった)

北方守備開拓使道無林野屯田兵
(屯田兵は北方の守りと開拓を任務とし道なき林野と取組み)

艱難辛苦目的果大札幌濫觴長伝
(困難に悩み苦しみ、見事その目的を果たした。大きく発展した札幌の濫觴を後の世まで伝えたい。濫觴:大河の源となる小さな流れ、孔子)

 また新琴似神社の境内には屯田兵中隊本部の建物が復元されており、

「百年の基を開きし農魂ぞ 命絶やすな先達の声」

「この地に育つ若人よ 今日を創りし先人の 自耕自拓の精神を継いで努力の人となれ」

と刻まれた碑が建てられている。

 各屯田兵村では子弟の教育が最優先課題で、入植した年には小学校が開校されている。寺子屋式の教育施設で始まり、その後本格的な小学校が建設されていき、今の琴似小学校、山鼻小学校、新琴似小学校に発展している。

1882(明治15)年に開拓使が廃止され、初代の岩村通俊を引き継ぎ永山武四郎が屯田兵司令官を兼ねて2代目の北海道長官となる。永山は屯田兵拡大計画を立て、「屯田兵条例」を1890(明治23)年に改正し、平民にも屯田兵になる資格を与えた。平民屯田の始まりが1891(明治24)年で、上川地方(今の永山村)に兵村が設営された。平民といえども、屯田兵及びその家族には士族と同様の気骨を求め、教育・訓練において武士的意識を持たせた。

 北方の警備と開拓を推し進めた屯田兵司令官永山武四郎の姓を取り、この地は1890(明治23)年に永山村となった。永山神社が1920(大正9)年に建立され、守護神として祀られている永山の銅像が軍服姿で正門前に凛々しく立っている。

 屯田兵制度は1875(明治8)年に始まり、1904(明治37)年に廃止されたが、この間屯田兵の総数は7337人を数え、家族を含めると3万人近くが東北から九州にかけて全国各地域から北海道に移住してきた。屯田兵及びその家族は高い規律、倫理、教養、我慢強さで未開の地を切り開き、現在の北海道を築き上げてきたと言えるだろう。