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北海道開拓の先覚者達 総集編―7更新日:2017年03月01日

    

 開拓使官有物払下不正事件をはじめ、酒乱であったなど、数々の風説が流布されている黒田清隆。だが北海道において彼が果たした功績は高く評価されるべきものだろう。黒田は戊辰戦争、箱館戦争で参謀として新政府軍の勝利に大きく貢献したが、その戦法は一方的な殺戮による鎮圧ではなく、西郷隆盛とともに敵軍に対して寛大な策を用いたと言われている。敵軍の将でも、有能でこれからの日本国建設に役立つ人物は取り立てて官位につけている。

 たとえば庄内藩の若手武将であった松本十郎(戸田惣十郎)は、根室担当の開拓使判官に採用。その後、開拓使大判官として札幌、北海道の開拓を担った。箱館戦争で敵将だった榎本武揚は、頭を丸めて懇請した黒田の努力で釈放され、その後北海道開拓に従事。空知炭田の開拓、日本三番目の鉄道である手宮線の敷設、小樽の開発、樺太・千島交換条約の締結などに才能と俊腕を発揮した。

 黒田は1870(明治3)年に樺太担当の開拓使次官となり、翌年から北海道開拓の指導者を求め米国を訪れた。時の米国大統領、ユリシーズ・グラントに懇請し、ホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘。そのケプロンを始めとするお抱え外国人顧問団の北海道開拓に果たした功績は極めて大であった。米国から帰国後は次官のまま開拓使を率い、1875(明治8)年には陸軍中将兼開拓使長官へ就任。名実ともに北海道開拓の頂点に立った。すると黒田は北海道開拓10年計画を打ち立て、この間の予算として1000万円(現在の価値で2000億円程度)を明治政府に認めさせている。1882(明治15)年に開拓使が廃止された後も明治政府の要職に就き、1888(明治21)年には伊藤博文の後を継いで第2代総理大臣に就任した。

 一方、黒田の求めに応じて北海道開拓のためにやってきたケプロンは、その当時68歳とすでに老境の域に入っていたが、青年のような理想と気力を持って来日を決意した。1872(明治4)年に日本の地を踏むと、まず東京・青山、麻布の旧大名屋敷跡に三つの官園を開設。ここで家畜、果樹、農作物などの飼育・栽培の実地試験を始めた。その経験と成果は札幌官園と七重(現・七飯町付近)官園での西洋式の機械化大規模農業という形で生かされていった。

 また北海道開拓には函館から札幌に至る大動脈が必要であるというケプロンの提言に基づき、札幌新道の建設が1873(明治5)年に始まった。新道は日本で西洋式に築造された最初の車道で、1873(明治6)年6月に開通している。1875(明治8)年6月、ケプロンは偉大な功績を遺し、夫人とともに東京丸に乗って横浜から米国に向け旅立った。札幌・大通公園の10丁目には、黒田とともにケプロンの銅像が建っており、大きく発展した札幌を見渡している。

 ケプロンとともに開拓使顧問として来日したのがエドウィン・ダン。彼は北海道における羊牧の基礎を築き上げた人物と知られている。ダンは1848年、米国オハイオ州デイトン・スプリングフィールドで生まれた。実はこの地は、筆者が3年ほど過ごした所であり、ダンには特別な親近感を感じる。1873(明治6)年に80頭の牛とともに日本に到着したダンはまず東京の第三官園で起居。その後1875(明治8)年に5カ月ほど七重に滞在し、その際に出会った津軽藩役人の娘・ツルと後に国際結婚する。

 札幌・真駒内には「エドウィン・ダン」の記念館が建てられており、近くには子ヤギを背負ったダンの銅像が建てられている。ダンはこの地に「牧羊所」を建設。米国からメリー種の牧羊200頭を取り寄せたのが、北海道における羊牧の始まりだ。

 さらにダンは新冠牧場の改良工事にも携わり、こサラブレッドの飼育を手掛け、馬産地・日高の基礎も築いている。北海道大学農学部付近に馬場を造り、日本で4番目の競馬場を開設したのもダンだ。

 1882(明治15)年の開拓使廃止にともない、ダンはアメリカに戻る。しかし翌年にアメリカ公使館の二等書記官として再来日し、病身のツルを看病してその最期を看取る。1893(明治26)年には駐日アメリカ全権大使となり外交官として活躍。1900(明治33)年には新潟で石油会社を設立するなど、ダンは日本の産業振興にその一生を捧げた。日本の年号で明治、大正、昭和と生き抜き、1931(昭和6)年、84歳で逝去した。

 北海道と本州では動物の生態系が大きく異なっている。本道以北は動物学的には北東アジア系で、本州とは津軽海峡で断ち切られている。この動物分布境界線が「ブラキストン・ライン」と呼ばれている。この名が冠されているトーマス・ライト・ブラキストンは箱館に23年間も滞在し、蝦夷地の特有な動植物分布を調査研究していた。だがそのかたわらでは、北海道の産業育成に務めた人物でもある。ブラキストンは1861(万延2)年、英国「西太平洋商会」に勤務し、箱館に再来訪する。日本で始めての蒸気式製材機を採用し、町民からは「木挽きさん」と呼ばれ親しまれたという。箱館戦争が勃発すると、ブラキストンは新政府軍のため武器・食料・石炭を調達し支援している。

 1883(明治16)年2月、ブラキストンは「日本列島と大陸との過去の接続と動物的兆候」という研究成果を発表し、この説は世界の学会に認められることになった。徳川幕府から明治に変わる大きな変動の中で、ブラキストンにも不幸が次々に襲いかかり、傷心の中で米国に渡った。同年、彼は偶然にダンと再開する。ブラキストンはダンの姉アンヌ・マリーに心惹かれ、彼女を熱心に口説き続け、努力が実を結び2人は結婚することになる。北海道を起点として、このようなドラマが生まれたのだ。

 北海道開拓の担い手として「移住民開拓」「屯田兵開拓」とともに、忘れてならないのが「監獄開拓:囚人開拓」である。

「ここに来たら二度と帰れないと恐れられた北の監獄。極寒の原始林を開く工事はあまりにも非人道的であった。囚人たちは多くの犠牲を払って難工事を完成させた」。

 日本で3番目に設置された「樺戸集治監」(現・月形町)にはこのように記されたパネルが置かれている。明治政府成立後も「佐賀の乱」「秋月の乱」「萩の乱」「西南戦争」が次々起こる。数万の「賊徒」が発生し、東京・宮城の獄舎では収容できず北海道への送還が計画された。

 1881(明治14)年、40人の囚徒により樺戸監獄が建設され、同年には460人が樺戸に収容されることとなった。獄舎では十分な暖房もなく、翌年には800人超いた収容者の2割強が死亡している。翌年、幌内炭鉱の採炭目的で空知集治監ができたが、こちらも閉鎖までの29年間で900人を超える死者が出ている。

 常に死と向かい合った中で、囚人たちは峰延道路、上川道路など幹線道路の開削、空知炭鉱などの鉱山採掘、新川などの河川掘削と治水工事、原野の伐採、さらに農地の開墾に酷使された。そこには「囚人が死ねば監獄費の節約になる」という、薩長主体の明治政府がとった非人道的な姿勢があった。

 国道275号線沿いに篠津山囚人墓地があり、ここに39年間で病気・事故・虐殺で亡くなった1022人の囚人が無縁仏として眠っている。北海道開拓の基盤を築いたのはまさに、このような方々の命だったのだろう。

 集治監の非人道的労働は教戒師やキリスト教の人達により内実が明らかにされ、世間の批判が高まっていった。1894(明治27)年、北炭幌内炭鉱を最後に囚人の外役労働が廃止。囚人たちは規則で守られるようになった。だが集治監労働に代わって、労務者確保のため登場したのが「監獄部屋」「タコ部屋」である。本州方面から「ポン引き」と呼ばれる斡旋屋の手引きで半ば騙されて連行され、半強制的に就かせる労働形態である。

 女子は女工に売られる一方、男子は周旋屋の餌食になり、甘言に乗せられた農家の二・三男、苦学生、破産した商家の丁稚などが「監獄部屋」に誘われた。1906(明治39)年に鉄道敷設が拡大すると、連れてこられた労働者はその工事で酷使された。道内のタコ労働者はこの当時で毎年2~3万人もおり、逃亡者は6~8000人もいた。そしてその半数は死亡していたといわれている。驚くべきことに、こうした非人道的労働形態は第2次世界大戦が終わるまで続き、占領軍(米軍)のGHQによってようやく改められたのだという。

 北海道神宮の末社「開拓神社」には当初36人の先覚者が祀られていたが、後に「十勝の農聖」「十勝開拓の祖」として十勝地方の方々に敬われている依田勉三が追加された。依田はペリーが浦賀に来航した1853(嘉永5)年に伊豆・松崎で生まれた。北海道開拓の志を持ち、1881(明治14)年単身で北海道に渡り、調査の上で開墾を決意する。「晩成社」を結成すると、翌1882(明治16)年、同志13戸27人とともに帯広(オベリベリ)の地に入植する。この年は後に帯広発祥の年とされ、1982(昭和57)年には「帯広百年記念館」も建設されている。

「晩成社」結成に当たり、その趣意書には「一万町歩(3000万坪)の未開地無償払下げを受け」とあるが、実際に入植した時点では無願開墾(無許可入植)で、札幌県が許可したのは入植から2年後の15万坪(50町歩)。当初計画のわずか0・5%であった。入植した年は春から秋にかけて干ばつが続き、持参した種の多くが発芽せず、やっと生育した作物もトノサマバッタに食い荒らされてしまうなど、悲惨な現実に直面した。小作人は次々と逃げ出し、依田は畑作を切り上げて生花苗(おいかまなえ:現・大樹町)での牧場経営に転換する。だが牧場経営も地理的に販売先が限られ、函館に店を構えても輸送コストが高く商売にならないという状況が続いた。次に乳牛事業でバター・練乳の生産に取り組むが、これもまったく利益をもたらすものとはならなかった。馬鈴薯デンプン工場、養蚕、リンゴ栽培、ビートの施策、馬牧場経営、木工所、亜麻栽培、シイタケ栽培、イグサ栽培、牛肉の大和煮など、次々と新たな事業に取り組むが、天は味方せずどれも成果を上げるには至らなかった。唯一成功したのは入植後37年経った大正9年、途別(札内)に耕作した水田だけだった。この初穂をそばに記念撮影した写真をもとにした銅像が、帯広神社近くの公園に建っている。依田は1925(大正14)年にこの世を去るまで42年間にわたり十勝の地で失敗に次ぐ失敗を重ねたが、前向きに新たな事業に取り組んでいったその姿勢には感服させられる。

 2013年6月から81回、3年を超える「北海道開拓の先覚者達」を掲載し、続いてその概要を7回の「総集編」でまとめてみました。第1回はアイヌ民族の蜂起から間宮林蔵らによる蝦夷地探検、第2回は本多利明の蝦夷地開拓計画から高田屋嘉兵衛らの漁場開拓、第3回は堀織部正を中核とした函館地区、石狩地区の開拓。第4回は榎本武揚を中心とした箱館戦争、第5回は開拓使の北海道開拓、第6回は伊達藩の士族移民や屯田兵による開拓、そして第7回となる今回は外人お抱え開拓顧問や囚人開拓について記載してきました。登場する先覚者は70人を数えます。「総集編」をお読みいただいた後、関心のある「先覚者」の詳細を過去のブログでご覧いただければ幸いです。

「社長ブログ 北海道開拓の先覚者達」も、88回を区切りに一旦終了といたします。